第三百二十五話 “如何に死ぬか?”

二十一世紀からの成熟した知性の人間は、「死」、つまり、“如何に死ぬか?”をキーワードにすることになる。
“如何に生きるか?”を問うのは未熟な知性(映像)のなせる業です。
“如何に死ぬか?”を問うのは成熟した知性(現実)のなせる業です。
では
“如何に死ぬか?”を問うとは、どういう意味でしょうか。
「在り方」を問うという意味に外なりません。
「考え方」を問うなら、“死とは何か?”と問います。
ここに、人間の一生、つまり、人生の妙があるのです。
更に、人生の結論としての「死」があるのです。
人生の結論が「死」でなければ「人生」とか「一生」と言えばいいのですが、人生の結論が「死」であるなら、「人死」とか「一死」と言うのが本来(本質)である。
まさに、未熟な知性による、未熟な言語の為せた業が、「人生」や「一生」という言葉にあるのです。
「一生懸命」という言葉と「一所懸命」という言葉があります。
わたくしは、今まで「一生懸命」という言葉を使ったことがありません。
「一所懸命」が本来(本質)の言葉で、「一生懸命」は「一所懸命」から転じた言葉で同じ意味だと広辞苑で言っています。
ならば、どうして、「人生」ではなくて「人死」、「一生」ではなくて「一死」が本来(本質)の言葉だと言わないのでしょうか。
「一生懸命」と「一所懸命」はまったく違う意味なのです。
つまり、
“如何に死ぬか?”を問うことができるが、“如何に生きるか?”など問えないのであって、“生とは何か?”としか問えないのです。
そして、その答えは、
生とは、死の不在概念に過ぎない。
生とは映像であって、実在(現実=「在り方」)である死の不在概念(「考え方」)に過ぎないのです。
だから、
“如何に死ぬか?”と問うことができても、“如何に生きるか?”などと問えるわけがないのです。
ところが、
わたしたち人間(どぶねずみ人間)は、“如何に生きるか?”をキーワードにして生き、“如何に死ぬか?”を死ぬまで避けて生きてきたのです。
もういい加減目覚めるべきです。