第三百二十八話 「錯覚の世界」と「理解の世界」

“如何に生きるか?”という問いは、過去・現在・未来に想いを馳せていることに外ならない。
過去・現在・未来に想いを馳せるということは、『今(地球号)』という汽車に乗って人生という旅をしている自分が止まっていて、窓外に見える“過去・現在・未来”という景色が動いていると勘違いすることによって、“過去・現在・未来”を「時間」だと錯覚していることに外ならないのです。
言い換えれば、
自分は映画を鑑賞しているだけなのに、映画に出演しているという錯覚に陥って、一喜一憂している錯覚に外ならないのです。
更に言い換えれば、
夜眠っている真最中の夢を現実と錯覚して、一喜一憂していることに外ならないのです。
更に言い換えれば、
昼間目が覚めている所謂現実という夢を現実と錯覚して、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に怯えていることに外ならないのです。
つまり、
「この世」=「動画面の世界」=「主観の世界」=「概念の世界」=「映像の世界」=「相対の世界」=「運動の世界」=「二元論の世界」=「円周の世界」=「生の世界」=「宗教の世界」=「科学の世界」=「神の世界」=「政治の世界」=「経済の世界」=「歴史の世界」=「悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖の世界」=「差別・不条理・戦争の世界」=「必然の世界」=「過去・現在・未来の世界」=「未熟な知性の世界」の話です。

“如何に死ぬか?”という問いは、『今、ここ』を生きていることに外ならない。
つまり、
『今、ここ』を生きているということは、『今(地球号)』という汽車に乗って人生という旅をしている自分が『今(地球号)』と一緒に動いていて、窓外に見える“過去・現在・未来”という景色が止まっていることを自覚することによって、『今』が唯一の「時間」だと理解していることに外ならないのです。
言い換えれば、
映画は動画面(アニメーション)という実在しないもので、実在するのは映写室の映写機に取りつけられた静止画フィルムであり、自分は飽くまで鑑賞者であることを理解することに外ならないのです。
更に言い換えれば、
夜眠っている真最中の夢が所詮夢(映像)であることを理解することに外ならないのです。
更に言い換えれば、
昼間目が覚めている所謂現実という夢が所詮夢であることを理解して、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖を超えることに外ならないのです。
つまり、
「この世とあの世」=「鑑賞席のある映画館の世界」=「主観・客観の世界」=「理解の世界」=「現実の世界」=「絶対・相対の世界」=「静止・運動の世界」=「三元論の世界」=「終点の世界」=「死の世界」=「宗教を超えた世界」=「科学を超えた世界」=「神を超えた世界」=「政治を超えた世界」=「経済を超えた世界」=「歴史を超えた世界」=「悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖を超えた世界」=「差別・不条理・戦争を超えた世界」=「必然・偶然の世界」=「『今、ここ』の世界」=「成熟した知性の世界」の話です。