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第三百三十二話 二重の錯覚の正体 実は自分が動いていて、他者が止まっているのに、自分が止まっていて、他者が動いているように観える。 よくよく考えてみると、すべてのことにおいて、この錯覚が起こっています。 自分以外のものは、すべて映像である証明です。 『今(地球号)』という汽車に乗って人生の旅をしている自分と、窓外に観える“過去・現在・未来”という景色が他者に外なりません。 更によくよく考えてみると、自分の身体でさえも、観えているものはやはり映像なのです。 つまり、 『今(地球号)』という汽車に乗って人生の旅をしている自分が、観えている自分の身体であって、それを汽車の外から観ている本当の(実在する)自分がある。 二重の錯覚が起こっている所以がここにあります。 一重の錯覚が音痴です。 『今(地球号)』という汽車に乗って人生の旅をしている自分が止まっていて、窓外に観える“過去・現在・未来”という景色が動いているように思える錯覚です。 二重の錯覚が自覚症状の無い音痴です。 『今(地球号)』という汽車に乗って人生の旅をしている自分が、観えている自分の身体であって、それを汽車の外から観ている本当の(実在する)自分があることを自覚していない錯覚です。 つまり、 『今(地球号)』という汽車に乗って人生の旅をしている自分と、窓外に観える“過去・現在・未来”という景色は相対関係にあります。 自分が止まっていれば、他者は動いている。 自分が動いていれば、他者は止まっている。 一方、 自分の身体でさえも観えるものと、観えないものがある。 言い換えれば、 観られるもの(鑑賞されるもの)と、観るもの(鑑賞するもの)がある。 つまり、 『今(地球号)』という汽車に乗って人生の旅をしている自分が、観えている自分の身体であって、それを汽車の外から観ている本当の(実在する)自分がある。 『今(地球号)』という汽車に乗って人生の旅をしている自分と、それを汽車の外から観ている本当の(実在する)自分とは絶対関係にあります。 つまり、 『今(地球号)』という汽車の外から観ている本当の(実在する)自分は絶対静止の世界にいるのです。 わたしたち人間が、「錯覚の世界」を生きていると錯覚している二重の錯覚の正体に外なりません。 |