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第三百五十二話 「死」の理解(4) 熟睡している人生が、死の一瞥の人生、実在の人生。 何故なら、熟睡の世界が完全な死に繋がっている世界だからです。 目が覚めている人生と夢を観ている人生が、生きている人生で、不在概念(映像)の人生。 つまり、 「熟睡している人生」=「死の一瞥の人生」とは、「現実(実在)の世界」=「静止の世界」に外ならない。 「目が覚めている人生」=「夢を観ている人生」=「生きている人生」とは、「映像の世界」=「運動の世界」に外ならない。 まさしく、 生きている人生と死の一瞥の人生があり、死の一瞥の人生が実在で、生きている人生は死の一瞥の人生の不在概念に過ぎなかった。 「死の世界」が実在で、「生の世界」は「死の世界」の不在概念、つまり、「映像の世界」に過ぎなかった。 従って、 わたしたちは一日の人生を、目が覚めている人生と、眠っている人生の二つに分け、目が覚めている人生を現実(実在)の人生と捉え、眠っている人生は目が覚めている人生の副次的なものとしか捉えない錯覚をしてきた。 つまり、 眠っている人生は、目が覚めている人生の休息する場所に過ぎず、自分の人生の主舞台は目が覚めている人生にある、と思い込んできた。 この区分けの仕方がそもそも勘違いであった。 わたしたちの一日の人生は、目が覚めている人生と眠っている人生ではなかったのです。 生きている人生と、死んでいる人生であったのです。 更に、 わたしたちの一日の人生は、目が覚めている人生が主、眠っている人生は副ではなかったのです。 死んでいる人生が主、つまり、現実(実在)で、生きている人生が副、つまり、映像であったのです。 先ずこのことを理解する必要があります。 |