第三百五十三話 「死」の理解(5)

熟睡している人生が、死の一瞥の人生、つまり、現実(実在)の人生。
目が覚めている人生と夢を観ている人生が、生きている人生、つまり、映像の人生。
この二つの区分けが正しかった。
では、
熟睡している人生=死の一瞥の人生とはどんな人生なのでしょうか。
五臓六腑の内臓、つまり、肉体だけが覚めていて、その外皮である五感は一部しか覚めていない人生が、熟睡している人生=死の一瞥の人生=現実(実在)の人生である。
では、
目が覚めている人生=夢を観ている人生=生きている人生とはどんな人生なのでしょうか。
五臓六腑の内臓、つまり、肉体も覚めていて、その外皮である五感も全部覚めている人生が、目が覚めている人生=夢を観ている人生=生きている人生=映像の人生である。
そうしますと、
五臓六腑の内臓、つまり、肉体は、熟睡している人生=死の一瞥の人生=現実(実在)の人生とも、目が覚めている人生=夢を観ている人生=生きている人生=映像の人生とも何ら関係がないことが、先ず、わかります。
五感が一部しか覚めていない人生が、熟睡している人生=死の一瞥の人生=現実(実在)の人生である。
五感が全部覚めている人生が、目が覚めている人生=夢を観ている人生=生きている人生=映像の人生である。
従って、
わたしたちの一日の人生とは、
五感が全部覚めている人生=目が覚めている人生=夢を観ている人生=生きている人生=映像の人生。
五感が一部しか覚めていない人生=熟睡している人生=死の一瞥の人生=現実(実在)の人生。
の二つの人生である。
一方、
五臓六腑の内臓、つまり、肉体も、その外皮である五感の全部も覚めていないのが、完全な死である。
従って、
「生」の条件は、
五臓六腑の内臓、つまり、肉体が全部覚めていること。
外皮である五感は一部覚めていること。
「死」の条件は、
五臓六腑の内臓、つまり、肉体が全部覚めていないこと。
外皮である五感も全部覚めていないこと。
結局の処、
「生」と「死」の問題は、五感の一部(部分観)か全部(全体感)の問題に過ぎなかった。
つまり、
わたしたちの生・死の問題は、五感の生(一部=部分観)・死(全部=全体感)の問題に過ぎず、五臓六腑の内臓、つまり、肉体の生(一部=部分観)・死(全部=全体感)ではなかったのです。
平たく言えば、
わたしたちの死とは、肉体の死ではなくて、魂の死に外ならなかったのです。
つまり、
魂は滅びても、肉体は永遠だったのです。
宗教が主張する輪廻転生、つまり、“肉体は滅びても、魂は永遠である”のは、逆さまだったのです。
先ずこのことを理解する必要があります。