第三百五十四話 「死」の理解(6)

わたしたちの一日の人生は、目が覚めている人生と眠っている人生ではなかった。
わたしたちの一日の人生は、目が覚めている人生が主で、眠っている人生が副ではなかった。
わたしたちの一日の人生は、生きている人生と死んでいる人生だった。
わたしたちの一日の人生は、死んでいる人生が主で、生きている人生が副だった。
死んでいる人生が、熟睡の人生であり、現実(実在)の人生に外ならなかった。
生きている人生が、目が覚めている人生と夢を観ている人生であり、映像の人生に外ならなかった。
従って、
目が覚めている人生のいわゆる現実と、夢を観ている人生の夢とは、同じ映像だった。
わたしたちが現実と思い込んでいる、目が覚めている時のいわゆる現実とは、夢を観ている時の映像の世界と何ら変わりはない映像の世界だったのです。
新田哲学で言うところの、いわゆる現実、つまり、映像に外ならなかった。
一方、
熟睡している人生が、現実(実在)の人生だった。
熟睡している人生では、“自分”という意識、つまり、自我意識(エゴ)もありませんし、時間もありません。
熟睡の人生に落ちた瞬間、もう目が覚めています。
まさに、「無の世界」です。
まさに、「死の世界」です。
「無の世界」=「死の世界」では、“自分”という意識、つまり、自我意識(エゴ)もありませんし、時間もありません。
逆に言えば、
「有の世界」=「生の世界」だから、“自分”という意識、つまり、自我意識(エゴ)もあり、時間もある。
わたしたちは、まさに、逆さまに生きていたのです。
先ずこのことを理解する必要があります。