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第三百五十五話 「死」の理解(7) わたしたちの一日の人生は、生きている人生と死んでいる人生だった。 わたしたちの一日の人生は、死んでいる人生が主で、生きている人生が副だった。 死んでいる人生が、熟睡の人生であり、現実(実在)の人生に外ならなかった。 生きている人生が、目が覚めている人生と夢を観ている人生であり、映像の人生に外ならなかった。 従って、 目が覚めている人生のいわゆる現実と、夢を観ている人生の夢とは、同じ映像だった。 そうしますと、およそ53年間の目が覚めている人生と、27年間の眠っている人生に分かれ、27年間の眠っている人生は、18年間の熟睡の人生と9年間の夢の人生とに分かれている、わたしたち人間の80年の人生は、死んでいる人生、つまり、現実(実在)の人生が18年間、生きている人生、つまり、映像の人生が62年間に分かれていて、更に、62年間の映像の人生は53年間の目が覚めているいわゆる現実の人生と、9年間の夢を観ている人生に分かれていることになります。 80年の人生の中で、53年間が二重の錯覚の人生を送り、9年間が一重の錯覚の人生を送り、たった18年間の人生が現実(実在)の人生に過ぎなかったのです。 錯覚の人生を正常な人生と勘違いする逆さま人間が、わたしたち人間の殆どであるのも仕方ないわけです。 18年間の正常な人生=熟睡の人生=死んでいる人生=“自分”のない、自我意識(エゴ)のない人生=現実(実在)の人生。 9年間の一重の錯覚の人生=夢を観ている人生=生きている人生=自我意識(エゴ)を“自分”と勘違いする人生=映像の人生。 53年間の二重の錯覚の人生=目が覚めている人生=生きている人生=自我意識(エゴ)を“自分”と勘違いする人生=映像の人生。 先ずこのことを理解する必要があります。 |