第三百五十七話 新しい本能

わたしたち知性ある生きもの・人間は、死ぬことを知った唯一の生きものです。
知性とは、死ぬことを知ることに外ならなかったのです。
ではいつどのようにして死ぬことを知ったのでしょうか。
ほとんどの人間は、自分がいつ死ぬことを知ったか憶えていません。
多分子供の頃だろうと思っています。
実は、生まれる前から知っていたのです。
それでないと、いつどのようにして死ぬことを知ったか憶えているはずです。
死ぬことを知る知性は、人間に本来具わっている本能だったのです。
大脳新皮質という、人間にしか具わっていない“考える能力”こそが、死ぬことを知る本能だったのです。
従って、
赤ん坊や小さな子供の頃に、親から死ぬことをはっきりと教えられたわけでもないのに、死に関わる出来事がまわりの中で起こっているのを見聞きして、自ら死ぬことを知ったのです。
だから、
いつどのようにして死ぬことを知ったか憶えていないのです。
仏教の開祖であるお釈迦さんは、28歳まで死ぬことを知らなかったそうです。
真実の話かどうか検証しようがありません。
真実であれば、まわりの出来事の中で死に関わる出来事から一切遮断されていた状態でしか起こりえないでしょう。
そんなことが可能だったのか。
いずれにしても、この逸話は、人間という生きものは、生まれてきた限りは死ぬことを知るように運命づけられていることを示唆しています。
まさに、死ぬことを知る知性は人間だけが持つ新しい本能だったのです。
本能とは、生きるために本来具わっている能力に外なりません。
そうなのです。
わたしたち知性ある生きもの・人間が、生まれてきて生きるのは死ぬことを確信するためだったのです。
生きるとは、死ぬことを確信することに外ならなかったのです。
死ぬことを確信することが、「死の理解」に外なりません。
“自分も必ずいつか死ぬ”という「死の概念」から、「死の理解」に進化しない限り、死ぬことを確信することはできないのです。
死ぬことを確信すれば、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖の人生から脱却できるでしょう。
「死の概念」こそが、未熟な知性の産物であり、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖の人生を送る羽目になり、差別・不条理・戦争を繰り返します。
「死の理解」こそが、成熟した知性の成果であり、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖を超えた人生を送ることができ、差別・不条理・戦争のない社会を実現できるのです。