第三百六十九話 死季(四季)を思い出す(6)

わたしたちひとり一人の一日、一年、一生の死季・四季を表わしているのが、『今、ここ』です。
『今、ここ』の自分が、一日の朝か昼か夜か。
『今、ここ』の自分が、一年の春か夏か秋か冬か。
『今、ここ』の自分が、一生の誕生か生(前半)か生(後半)か死か。
従って、
『今、ここ』の自分が、一日の朝=一年の春=一生の誕生か。
『今、ここ』の自分が、一日の昼=一年の夏=一生の生(前半)か。
『今、ここ』の自分が、一日の昼=一年の秋=一生の生(後半)か。
『今、ここ』の自分が、一日の夜=一年の冬=一生の死か。
従って、
『今、ここ』の自分が、一日の朝(清々しさ)=一年の春(初芽)=一生の誕生(子供)か。
『今、ここ』の自分が、一日の昼(充実)=一年の夏(成長)=一生の生(前半)(青年)か。
『今、ここ』の自分が、一日の昼(充実)=一年の秋(成熟)=一生の生(後半)(壮年)か。
『今、ここ』の自分が、一日の夜(静寂)=一年の冬(枯葉)=一生の死(老年)か。
従って、
『今、ここ』の自分が、一日の朝(清々しさ)=一年の春(初芽)=一生の誕生(子供)=母との出会か。
『今、ここ』の自分が、一日の昼(充実)=一年の夏(成長)=一生の生(前半)(青年)=母との対面(前半)か。
『今、ここ』の自分が、一日の昼(充実)=一年の秋(成熟)=一生の生(後半)(壮年)=母との対面(後半)か。
『今、ここ』の自分が、一日の夜(静寂)=一年の冬(枯葉)=一生の死(老年)=母との別離か。
何れにしても、
『今、ここ』の自分がわからなければ、自分の死季=四季は思い出せません。
『今、ここ』の自分は、普段わたしたちが思い込んでいる自我意識(エゴ)のニセモノの自分ではなく、ホンモノの自分です。
従って、
自分の死季=四季を思い出すには、ニセモノの自分とホンモノの自分を判別できる理解力が先ず必要になります。