第三百七十七話 “気づき”の意味

お釈迦さんが悟った瞬間(とき)に思ったそうです。
悟りとは、何か遠い存在のものではなく、そもそも自分に内在していたものだった。
彼は28才で出家して、42才で悟りの境地に至ったそうです。
14年間、インド中屈指の悟った人に師事して、師匠顔負けの苦行を完璧に熟したそうです。
そんな師匠たちは、本当は悟っていなかったのでしょう。
どんな師匠と出会っても、完璧に苦行を熟すお釈迦さんを師匠は疎ましく思って、最後には必ず破門する始末でした。
“自分はやるだけのことはやった。もう自分の人生はお終いだ!”と観念したお釈迦さんが、菩提樹の下に座って瞑想をしていた瞬間、“悟りとは、追い求めるものではなく、そもそも自分に具わっているのに、忘れていたものを、思い出すことだった!”ことに気づいたのです。
28才で人はみんな死ぬことを知ったお釈迦さんが、生きる意味を求めて修行した14年間の結論が“気づき”に外ならなかったのです。
その“気づき”とは、新田哲学では、

手の届かないことを望むのが欲望の正体である。
言い換えれば、
既に手にしているものを望む必要はない。
既に手にしているものは、『今、ここ』にある。
更に言い換えれば、
無いものねだりをするのがニセモノの自分、つまり、自我意識(エゴ)である欲望に外ならない。
『今、ここ』にあるものを望むべくもない。
従って、
無いものねだりをするには、『今、ここ』との間に空間が要る。
従って、
無いものねだりをするには、『今、ここ』との間に時間という空間が要る。
それが、過去・現在・未来という時間に外ならない。
それが、過去・現在・未来という光景(空間)に外ならない。

と言い換えているだけです。