第三百八十六話 「理解」とは「自覚・気づき」

「理解の世界」とは一体どんな世界でしょうか。
「観念の世界」、「概念の世界」の実体を理解することに外なりません。
わたしたち人間は、「概念の世界」を生きていながら、「概念の世界」の実体を理解していないのです。
まさしく、「理解」とは知らないことを知ることではなく、知っていたことを思い出す「自覚・気づき」に外ならなかったのです。
言い換えれば、
自覚症状のない音痴だったことを、先ず、自覚することに外ならないのです。
では、
「観念の世界」、「概念の世界」の実体とは、一体どんなものだったのでしょうか。
「死の観念」、「死の概念」を思い出してください。
「死の観念」とは、「食う食われる」意識であって、「死」を知らないで生きることで、自然社会で生きている生きものたちの「死」に対する無知の意識です。
「死の概念」とは、「殺す殺される」意識であって、「死」を知って生きることで、わたしたち人間が持つ“自分も必ずいつか死ぬ”という他殺の意識です。
従って、
「死の理解」とは、「死」を知るということは、自ら「死」を決めることができるという理解(自覚・気づき)に至ることです。
では、
「時間の観念」、「時間の概念」を思い出してください。
「時間の観念」とは、朝・昼・夜・春・夏・秋・冬という、一日と一年の四季に対する意識で、自然社会で生きている生きものたちの無知の意識です。
「時間の概念」とは、1息前・1瞬前・1秒前・1分前・1時間前・1日前・1週間前・1ヶ月前・1年前・1生前、1息・1瞬・1秒・1分・1時間・1日・1週間・1ヶ月・1年・1生、1息後・1瞬後・1秒後・1分後・1時間後・1日後・1週間後・1ヶ月後・1年後・1生後、という、わたしたち人間が持つ過去・現在・未来に対する意識です。
従って、
「時間の理解」とは、過去・現在・未来というものは流れる(運動する)「時間」ではなく流れる(運動する)「光景(空間)」であり、本当の「時間」とは静止している『今』であるという理解(自覚・気づき)に至ることです。
更に、
過去・現在・未来という流れる(運動する)「光景(空間)」が実は静止していて、『今』という本当の「時間」が自分と一緒に流れている(運動している)という理解(自覚・気づき)に至ることです。
従って、
「蓄積の観念」、「蓄積の概念」の実体を理解することが、「蓄積の理解」に外なりません。