第三百八十九話 「蓄積の理解」の実体

「蓄積の理解」に至るには、「蓄積の観念」、「蓄積の概念」の実体を理解することです。
「蓄積の観念」の実体は、貧=「本来蓄積なし」です。
「蓄積の概念」の実体は、「貧富二元論」にあり、「貧富二元論」の本質は「多数の貧が実在で、少数の富は貧の不在概念に過ぎない」点にあります。
結局の処、
「蓄積のない」状態が常であるのが弱肉強食の自然社会であって、「蓄積のない」状態を人間社会では「貧」と定義して、「貧」のない状態、つまり、不在概念を「富」と定義しただけのことです。
本来の姿である「蓄積のない」状態を「貧」という否定的な言葉にして、単なる考え方に過ぎない、貧=「蓄積のない」のない状態を「富」という肯定的な言葉にしたのが、わたしたち人間です。
では何故わたしたち人間はそんな逆さまのことをしたのでしょうか。
人間という生きものは、「蓄積のない」弱肉強食の自然社会では最も弱い生きものだったからです。
二本足の生きものに変身したのも、「蓄積のない」弱肉強食の自然社会では最も弱い生きものだったからです。
「蓄積のない」自然社会で最も弱い生きものが生き残っていく術は、「蓄積のある」社会で生きるしかないと考えるのは必然の成り行きだった。
だから、
本来の姿である「蓄積のない」状態を「貧」という否定的な言葉にして、単なる考え方に過ぎない、貧=「蓄積のない」のない状態を「富」という肯定的な言葉にしたのです。
その結果、
長い年月を経て、わたしたち人間は、“富が好くて、貧が悪い”という、いわゆる新田哲学で言うところの「好いとこ取りの相対一元論」に陥ってしまったわけです。
「貧」という本来実在するものを避け、「貧」の不在概念に過ぎない「富」という実在しないものを追いかけるという土台不可能なことをしてきたわけです。
このことを理解することが、「蓄積の理解」に外なりません。
わたしたち人間にとって、『今、ここ』を生きることが「理解の世界」への登龍門である所以です。