|
第三百九十話 終点の世界 わたしたち人間は、長い年月を経て“富が好くて、貧が悪い”という、いわゆる新田哲学で言うところの「好いとこ取りの相対一元論」に陥ってしまった。 「貧」という本来実在するものを避け、「貧」の不在概念に過ぎない「富」という実在しないものを追いかけるという土台不可能なことをしてきた。 このことを理解することが、「蓄積の理解」に外なりません。 つまり、 「蓄積の理解」に至るには、「蓄積の観念」、「蓄積の概念」の実体を理解することです。 つまり、 「理解の世界」に至るには、「観念の世界」、「概念の世界」の実体を理解することです。 「観念の世界」と「概念の世界」の関係は、「観念の世界」が実在するもので、「概念の世界」は「観念の世界」の不在概念に過ぎないという点です。 つまり、 「観念の世界」が「現実(実在)の世界」で、「概念の世界」が「映像の世界」である所以です。 わたしたち人間が現実だと信じ込んでいる世界が「映像の世界」である所以です。 わたしたち人間が現実だと信じ込んでいる世界が「夢の世界」と同じである所以です。 わたしたち人間は、自然社会の生きものが生きている「観念の世界」という「現実(実在)の世界」に生きていながら、「概念の世界」という「映像の世界」に生きていると信じ込んでいるのです。 「概念の世界」に生きていると信じ込んでいるわたしたち人間が、進むべき道は「理解の世界」しかないのです。 「観念の世界」→「概念の世界」→「理解の世界」 「始点の世界」→「円周の世界」→「終点の世界」 マクロ宇宙からミクロ宇宙を貫く円回帰運動に、ミディアム宇宙に存在する人間も従うしかありません。 |