第三百九十七話 最早許されない錯覚

人類にとって生き残りの世紀になる二十一世紀では、
わたしたち人間は、従来の生活スタイルを根本的に変えざるを得ません。
わたしたち人間は、従来の価値観(考え方)を根本的に変えざるを得ません。
過去・現在・未来に想いを馳せながら『今、ここ』の事実を追求するといった矛盾は最早許されません。
過去・現在・未来に想いを馳せながら『今、ここ』の事実の積み重ねである真実を追求するといった矛盾は最早許されません。
つまり、
「好いとこ取り」をすることは最早許されません。
主観性(神の概念)の追求であり、事実を歪曲した古代社会、中世社会の主役を果たした宗教は、二十一世紀では最早許されません。
客観性の追求であり、主観性(神の概念)の否定から生まれた事実の追求ではあったが、真実の追求ではなかった近代社会、現代社会の主役を果たした科学は、二十一世紀では最早許されません。
言い換えれば、
「オス社会」を頂点にして、「宗教と科学」と「支配・被支配二層構造と世襲・相続の差別社会」で底辺を構成するトライアングル構造の「概念の世界」である社会は、二十一世紀では最早許されません。
言い換えれば、
動画面(映像)という過去・現在・未来の光景(空間)は、静止画フィルム一枚という「事実」なしでは起こり得ないのです。
動画面(映像)という過去・現在・未来の光景(空間)は、静止画フィルム一枚一枚の積み重ねである映写フィルムという「真実」なしでは起こり得ないのです。
詰まる処、
わたしたち人間が、いわゆる現実と思い込んでいる:
「この世」=「動画面の世界」=「主観の世界」=「概念の世界」=「映像の世界」=「相対の世界」=「運動の世界」=「二元論の世界」=「円周の世界」=「生の世界」=「宗教の世界」=「科学の世界」=「神の世界」=「政治の世界」=「経済の世界」=「歴史の世界」=「悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖の世界」=「差別・不条理・戦争の世界」=「必然の世界」=「過去・現在・未来の世界」=「未熟な知性の世界」=「有(有限)の世界」=「蓄積の概念の世界」は、
「この世とあの世」=「鑑賞席のある映画館の世界」=「主観・客観の世界」=「理解の世界」=「現実の世界」=「絶対・相対の世界」=「静止・運動の世界」=「三元論の世界」=「終点の世界」=「死の世界」=「宗教を超えた世界」=「科学を超えた世界」=「神を超えた世界」=「政治を超えた世界」=「経済を超えた世界」=「歴史を超えた世界」=「悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖を超えた世界」=「差別・不条理・戦争を超えた世界」=「必然・偶然の世界」=「『今、ここ』の世界」=「成熟した知性の世界」=「無(限)・有(有限)を超えた世界」=「蓄積の理解の世界」なしでは起こり得ないのです。
まさに、わたしたち(どぶねずみ)人間は、映像(映画)の世界で生きていると錯覚してきたのですが、二十一世紀では最早許されません。