|
第四章 蝕まれた貴い国 人間の体にとって一番大事なところは臍である。 地球にとっても一番大事なところは臍である。 その臍の位置にある、この日本が腐りきってしまっている。 人間の臍が腐りきるとどうなるか。息がまず出来なくなる。何故なら、本当の息は肺でなくて臍でしている。肺が腐ると結核になって結局息が出来なくなってしまうが、肺がする息は大気中の空気を呼吸しているだけであって、死ぬことはない。 空気に載って入ってくる宇宙エネルギーは臍で呼吸される。その臍が息を出来なくなると、命の泉が絶たれるから命はなくなる、しかもその命は体だけのものではなく、精神の命もなくなる。 地球の臍である日本列島が、宇宙から地球に注がれるエネルギーという息をすることが出来なくなると、地球は運動が出来なくなる。 だから、日本という国は貴い国なのである。その国が今まさに腐りきった悪臭を放とうとしていた。それを辛うじて食い止めたのがデビルだった。 しかし、お仕置きをいくらしても更なる悪が頭をもたげてくる。そしてとうとう根元までデビルは漕ぎつけた。 その根元は地中深く根ざしているだけに面倒なものである。木の葉や枝や幹を切り取るのは、力づくで、ばっさりやってしまえばいいが、根は下手な処理をすると、取り返しがつかなくなってしまうから神経を使う。一本一本丁寧に抜いていかなければならない。 昨日、デビルは樹齢2千年の大木の根を一本抜いただけだ。まだ何千本もの根が張っている。気の遠くなるような作業だが、根気よくやるしか方法はないのだ。 そのとき、国常立が囁いた。 『この山越せば花さかりのところまでは根気よくやるしかない。しかし、その山を越してしまえば、あとは坂をころげ落ちるスピードでゴールに向かう。兎に角、この山を越すことだ』 広い砂漠を歩いて越えるようなものだ。一歩一歩足下を見ながらしっかりと歩くと、ゴールを忘れ、歩く自分と、歩いている砂漠との間に、ただ歩くことのみが意識に残る状態になる。その意識は砂漠の意識にも、砂漠の砂一粒の意識にも、地球の意識にも、引いては宇宙全体の意識にも通じる。そうなったら、たとえサハラ砂漠であろうが、ゴビ砂漠であろうが難なく越えることが出来る。全体と一体になっているからだ。そのことを、国常立がデビルに教えているのだ。 奇跡というものは、すべてこの状態に入ったときに起こる。奇跡は偶発的なものではなく、宇宙の初めである一元絶対宇宙では当たり前のことなのだ。 無限であり、すべてであり、またそれは何もない無、空の状態であるのだ。それは人知を超えたものであり、永遠のものである。 その永遠なるものを、人間という、宇宙からしたら塵のような存在でも得ることが可能になる。まさに奇跡とはそのことである。 デビルがこれまでやってこられたのは、絶対宇宙の唯一無二の法則と一体になっていたからである。 国常立の意識も、結局は永遠の絶対意識から来ているのだから、考えてみれば当然のことである。 従って、如何なる敵であってもデビルの相手にはならない。絶対宇宙と戦うのだから勝てるはずがない。 デビルはそのことが解ってきたのである。 『高野山で修行して得たものが、今の自分の力の源泉であると思っていたが、実はそうではなく、絶対宇宙の意識と同通する術を高野山で修行していたのだ』そう思うと、今までのことがすべて納得出来た。 その瞬間(とき)、デビルは殺人鬼の悟りから、ひとりの普通の人間としての悟りを得たのだ。 『確かに、最初の頃は自分の無敵ぶりに酔っていたところがあった。そのときは所詮、殺人鬼そのものであった。今回のお仕置きに何とも言えない後味の悪さを感じたのは、もう以前のような殺人鬼の意識ではなかったからだ。それならば、自然の成り行きに任せておけばいい。絶対宇宙と一体になれば何も考える必要はない。成るべくして成るのだ』 デビルの胸につかえていたものが、すっと消えた。 更に一回り大きくなった殺人鬼が誕生したのだ。 アインシュタインが言い、マイヤーも言っていた、この日本という国は地球の臍である貴い国で、いかなる状態になろうとも、最後はこの国に回帰するために救世主が現れる。それが鬼神ことデビルなのだ。 まさにイエスという救世主キリストがもうひとつの臍の地に現れて以来2千年ぶりの救世主の復活なのである。 欧米のキリスト教圏の国々が、デビルが登場したときに、 「Jesus Christ resurrect in Japan after 2K he was crucified」 と、デビルのことをJesus Christと採っていたのは、彼らが新約聖書を信じ、ヨハネの黙示録による、救世主の復活を期待していたからである。 それが、日本で復活するとは、ほとんどの欧米の国の人間たちは思ってもいなかったが、マイヤーは、日本という国が元々唯一の地球の臍であることを知っていたから、こんど救世主が現れるとしたら日本であることをわかっていたのだ。 その貴い国が蝕まれているのだ。かつて2千年前にヘブライ人がカナンの地を蝕み、イエスがそれを糾そうとしたため、十字架に架けられた。イエスの教えは今のキリスト教の教義などとはまったく関係ない。唯物的生活に埋没していた当時のヘブライ人に、エジプトの奴隷から解放してくれたモーゼの教えを思い出せと訴えただけである。 マイヤーは8年前にデビルの出現を知ったとき、直感的に救世主キリストの復活を感じて、ベルギーのブルージュという町のノートルダム寺院に行った。 そこには、1600年代にルーベンスが救世主キリストの十字架に架けられる直前と架けられた後、十字架から下ろされるところを描いた絵があり、その絵を見に行ったのだ。 そして、イエスを十字架に架けたのは、ローマ人ではなく、同胞のヘブライ人のイエスに対する憎しみであり、逆にローマ人はイエスを尊敬していたことが窺われる絵であった。 「何度も、あの絵を見たことがあるのですが、まったく気がつかなかったのです。その絵に描かれている人たちの表情を、隅々まで観察してみて判ったのです。今のキリスト教はカトリックであろうと、プロテスタントであろうと、イエスの教えの原点を愛などと言っておりますが、全然違います。彼こそ人類史上、最も勇気ある人間だったのです。当時パレスチナの総督をしていたローマ帝国の軍人ピラトは、イエスの勇気を高く評価し、ヘブライ人にとって一番大事な催しである過ぎ越しの祭りの特別恩赦で、彼を助けようとします。しかし大衆はイエスに恩赦を与えませんでした。その時ピラトは、イエスの血は自分にではなく、彼ら大衆に掛かると言って自分の手を大衆の前で、水で洗います。昔のベンハーという有名な映画でその場面が出てきます。しかし、わたしはその映画を見たとき、何故ピラトが手を洗っているのか分かりませんでした。人間という動物は複雑なものです。多分あの映画を製作したのは形骸化したキリスト教系の人たちでしょう。だからピラトの手を洗った理由(わけ)を映画の中できっちり説明していないのです。ローマ人ピラトがイエスを十字架に架けたと錯覚します。 しかし良心のかけらがあったのか、語るに落ちたというのか、ピラトが手を洗う場面は聖書に書かれているから画面に出した。愚かな大衆は、その場面だけ見ても分からず見過ごすと、高を括っていたのでしょう。 わたしは、イエスが大工の息子として生まれて、ほとんど教育も受けていないのに、新約聖書に書かれているような高尚な教えをどうして説けることが出来たのだろうと疑問に思っていたのです。それを父なる神の子などと奇跡で片付けていたのが今のキリスト教です。イエスは唯、間違っていることを、勇気を持って力ある者たちに糾弾しただけのことなのです。是々非々を堂々と言っただけのことなのです。現代の世界を考えてください。イエスの時代風潮とまったく同じ状況だとは思いませんか。 是々非々の判断が出来なくなってしまった人間で溢れていると思いませんか。わたしがデビルさまにお会いしようと思ったのは、その絵を見たときだったのです」 歴史は繰り返すと言うが、人間の懲りない性がそうさせるのだ。 またもや、イエスを十字架に架けようとする唯物的ヘブライ人ではなく、今度は日本人が、この貴い国を蝕んでいるのである。 「デビルさまが十字架に架けられたら、今度は日本人が悲惨な迫害の歴史の展開を受けなければならなくなる」とマイヤーは言っていた。 『この国を蝕んでいる連中を根絶やしにしなければならない』 デビルは新たに気持ちを引き締めた。 |