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| PART I PART II PART III |
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はじめに ニーチェが「神は死んだ」と言ったのは、ある日、大木を見て思ったそうです。 ヨーロッパのキリスト教世界の人々は、天に主なる神がいると思ったのでしょうか。 各国にある大聖堂、いわゆるドームはゴチック建築の粋を結集して建築された、人間技とは思えない奇跡の建造物揃いであります。 天にまします主なる神に少しでも近づきたい想いが、その建物に顕れています。 ニーチェは大木に、そのドームと同じ意味を感じたのですが、ひとつ肝心なものがドームには欠けていました。 大木には、深い大きな根があるのに、ドームには無い。天に向かおうとすれば、地中深くにも向かわなければならない。神を強く求めれば悪魔を求めるのも強くなるはず。天国を求めるなら地獄も覚悟しなければならないはず。これでは自然の摂理に合わない。 だから、聖書にある悪魔の存在を説明出来ないことに気がついたのです。 神が存在するなら、悪魔も必ず存在する。それなら、今までの神の概念では説明がつかない。だから「神は死んだ」のです。 「ジャックと豆の木」という童話があります。 ジャックが、ある日、豆の木の蔓が天からぶら下がっているのを見て、蔓を昇っていったら天国があった。という話しです。 どうして豆の木の蔓が天からぶら下がっているのでしょうか。普通は地から生えた木の幹、そして枝から、ぶら下がっているのではないでしょうか。 どうやら、神や天国は天に存在するらしいが、その天には、人間は行くことが出来ないと、この童話は言っているようです。 だから行きたい一心で天に向かう建物を造るのでしょうが、天に向かえば向かうほど、大木が示すように、地中深く根が向かっていることに気づかなくてはなりません。 奇跡的なドームを見る度に、これらの建造物を完成させるのに、どれだけの犠牲者が地中に眠っているか計り知れない、という思いに馳せるのはわたしだけでしょうか。 この犠牲者こそが、地中深く張り巡らしている根ではないでしょうか。 地中には、地獄が存在していることを知っていながら、見て見ぬ振りしてきたのが、人間が捏造した神の概念でありました。 天と地。 地は我々の住む空間。 天は空間の上に君臨する時間を加えた時空の世界。 これが宇宙のすべてを表現していると思います。 次元という概念があります。 これだけ、科学が進歩しても、我々が見出すことが出来た次元は四次元までであります。 一から四まであるのだから、当然それ以上のものもあるはず。と思うのは人間として至極当然の発想ではあります。 しかし、現実に、我々は四次元以上のものを発見してはいないのです。 宗教の世界では、愛だとか、慈悲だとか、菩薩だとか、その上に神がいる。と主張しているようですが、一体何の根拠を以って言っておるのでしょうか。見たこともないものを、よく言えるものです。 幻想のことをMayaと言います。まさしく宗教はまやかしそのものであります。 わたしは無神論でこんなことを言っておるのではありません。 本当の神なら、万民すべてに平等にするはずであります。 愛や慈悲など、平等の概念からしたら低レベルな概念であります。 何故なら、愛にも、慈悲にも、それぞれ違いがあります。それでは万民平等ではありません。 しかし、四次元までの要因は、そのような観念の世界には在りません。 一次元は線です。二次元は平面です。三次元は立体です。四次元は時空つまり、立体プラス時間であります。 ここまでは科学の世界であるのが、それからが愛だ、慈悲だ、菩薩だ、・・・。 これはいくら何でも余りにも荒唐無稽だとは思わないのでしょうか。 アインシュタインが五次元以上の世界に挑んだようですが、結局発見出来なかった。 「人間の世界で解ることは四次元までで、それ以上は神の世界だ」と言ったことも影響しているように思います。 ここで、発想の転換をひとつしてみようではありませんか。 そもそも次元なんて概念を考え出したのが人間であって、宇宙では、そんなことはどうでもいいことなのです。 ただはっきりしていることは、三次元である立体つまり空間は、時間に支配されているが、時間はすべてのものに差なく同じだけ与えているということを、基本に考えるべきではないでしょうか。 我々人間を含めて、すべてのものは時間を制御することは出来ず、逆に時間に制御されているのですが、差別は一切ない。どんな人間にも、一日二十四時間与えられている。 神とは一体何でしょうか。 人知を超えたもの。 それは時間しかないと思わざるを得ない。 神とは時間なりと考えれば、神をより深く理解出来るのではないでしょうか。 そこで、時間が神という前提で、神の全貌を解き明かす試みをしてみたいと思って、書き始めてみることにしました。 今日ポーランドのクラクフという古い都の郊外にあるアウシュビッツ強制収容所跡を訪問して、人間とはかくも罪深き生きものであるかと思い知らされたショックの消えない間に書き始めたいと思ったのです。 平成十四年五月二十一日(クラクフにて) 新 田 論
「神はすぐ傍」Part I&II あとがき 「神はすぐ傍(そば)」という言葉は、あのポーランドにある古都クラクフのホテルで、オシフィエンチェムとポーランドでは呼ばれている、映画「シンドラーのリスト」の舞台となったアウシュヴィッツの今でも叫び続ける亡霊に衝撃を受け、ニーチェは「神は死んだ」と言ったけれど、それでは一体、人間はこれからどう生きていったらいいのか、何を基準にすれば、少しでも心穏やかな人生を送ることが出来るのかを、わたしなりに考えてみたいという衝動から書き始めたのです。 「神」という言葉をタイトルにした作品を書くのは、内心、もの凄い抵抗があるのですが、「神の自叙伝」を書いた時も、同じ想いから、「神」という言葉を敢えて使いました。 これだけ科学が発達した世になると、人間は、ますます両極に走ってしまいます。 「神」さえ信じていれば、幸福に生きられると思っておられる信仰深い方々。 「神」などと、まやかしの言葉に惑わされて生きることは愚かだと思っている知的な方々。 わたしは、本質のところでは、人知を超えた存在を信じています。 従って、表現方法はいろいろあるが、人知を超えた存在としての「神」を信じています。 しかし、人間と神という特殊な関係にあるような「神」などあるわけがないとも確信を持っています。 「神」という言葉を使うことに、複雑な気持ちになる理由でありますが、敢えて使ったのは、わたしの生来のあまのじゃくな性格の故でしょうか。 「神」という言葉を使わずに、「時間はすぐ傍」としても良かったのですが、 最初に湧き上がった言葉が、「神の自叙伝」の時もそうであったように、「神はすぐ傍」だったからであります。 しかし、この「あとがき」を、いま書いているのも、実は、湧きあがって来たからなのです。 Part I,IIとしましたのも、自分のライフワークとして書き続けようと思ったからであり、従って、Part III, Part VI・・・という積もりであったのですが、今度書く時は、もう「神」という言葉はもう使わないと、決心したからです。 「あとがき」など書く積もりはなくて、Chapter50の「時間からのメッセージ」が「あとがき」の積もりでしたが、Part IIIがなくなって、新しいタイトルが必要となったのです。それが、「時間からのメッセージ」であります。 平成十四年九月二十六日 新 田 論
「神はすぐ傍」終りに PartIIの、あとがきで、神という言葉を使うのは、わたしの本意ではないので、本来PartIIIの「時間からのメッセージ」を、別作品にすると申しました。 事実、わたしの原稿を公開しているホームページでは、「時間からのメッセージ」という作品で掲載していました。 しかし、Messageを積み上げていく度に、やはりこの作品は、「神はすぐ傍」の締め括りとして最適だとの想いが強くなってきました。 どうしても、「神」という名のタイトルは、わたしの全作品のテーマからして、受け入れ難いものです。 しかし、現代世相を俯瞰してみますと、神をただ否定するだけでは、人間社会は、もう収拾がつかないところまでやって来ているように思えてなりません。 これだけ多くの旧来宗教、及び新興宗教が乱立する中で、至難の技のような気がしますが、旧来の神という言葉からイメージするものとは、まったく違うコンセプトを、もう一度、神という言葉で置き換えることは出来ないものでしょうか。 それとも、いっそ神という言葉を避ければ、事は簡単です。 しかし、それでは尻尾を巻いて逃げたイメージを払拭できません。 考え抜いた結果、結局、「神はすぐ傍」のPartIIIにすることに決めました。 敢えて、困難な道を選ぶことにしたのです。 「神の自叙伝」を書き上げた時には、もうこういう類の作品を書くことはないだろうと、思っていました。 しかし、今年の五月二十一日に、ポーランドのクラクフのホテルで、書き始めた作品は、予想も出来なかった作品に仕上がったと思っています。 「心の旅の案内書」は永年、胸の中に暖めてきた作品だけに、一字一句隅から隅まで、はっきり憶えています。 ふっと「神の自叙伝」というタイトルが湧いてきて書いた作品は、結構インスピレーションで書いた部分が多く、どんなことを書いたか、失念しているものが、かなりの部分あります。 同じように、ふっと湧いた「神はすぐ傍(そば)」は、クラクフのホテルで書き始めた時から、ほとんどインスピレーションで書きました。 特に、PartIII「時間からのメッセージ」は詩的文章で書いたものですから、文章というより、唄であります。 唄には、理屈はありません。 詠んだわたしの感性が、詠まれた読者の感性をどれだけ打って響かせるかです。 だから、何を書いたのか、思い出そうとしてもなかなか思い出せません。 それだけに、読み直すと、一読者としての新鮮さを感じる歓びがあります。 これは,今までにない感動でありました。 どうか、詩を詠むように、この作品を何度も詠んで楽しんでください。 平成十四年十月十ニ日 新 田 論
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