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Chapter 13 一時間60分は無用 宇宙の法則に則した地球上での時間の定義は、地球が一回自転する一日と、地球が太陽の周りを一回公転する一年365.25日との関係だけであります。 ところが我々はそれぞれの歴史や宗教や慣習・風土に則して、いろいろな暦を設定しているわけです。 何度も申しますが、いくら太陽暦であろうが、太陰暦であろうが、他の暦であろうが、地球上に存在するものにとって、地球が一回自転するのと、一回公転するのとの間にある365.25 : 1 という関係だけは不変なのです。 そして、次に一年を12ヶ月に分けたり、1ヶ月を28日に分ける太陰暦や、現在世界標準になっている太陽暦、それ以外にもイスラム暦、イラン暦・・・と数多くありますが、これは、その国の事情で決まったことであります。 一方、1週間が7日、1時間が60分、1分が60秒というのは、時間を設定している国では統一されているようです。 もちろん、アフリカやアマゾンの奥地で原始生活を送っている人たちには当てはまりません。 1週間が7日に分けられたのは、聖書であることはご存知だと思います。 6日働いて1日休息する、その安息の日が、日曜日であったり、金曜日であったり、土曜日であったりしますが、7日あって1日が休息の日という決め方です。 どうやら、聖書を書いた人たちには、数字が特別な意味を持っていて、その中でも七という数字が特に重い意味を持っていたようです。 理由は知りませんが、日本語に言霊信仰があるように、彼らには数字信仰があったようです。 ヨハネの黙示録にある数字666と言うのも何かを象徴しているのでしょう。 とにかく聖書には七という数字がやたらと多く出てきます。 1、4、7という数字群、2、5、8という数字群、3、6、9という数字群の間に共通するのは7から1を差し引くと6になる、8から2を差し引くと6になる、9から3を差し引くと6になる。 この三つの数字群にそれぞれの特性があるらしい。だから666と言うようです。 農地を利用する方法でも6年間耕して農作物を作れば、7年目は休耕させて地力を回復させるという考え方は、1週間7日で1日休息と同じ考え方であります。 彼らの経験則と宗教観によるものだと思いますが、日本の昔は1週間という考え方はありませんでした。年と月と日と刻だけでありました。 日と刻の間が十二支で分けられたことは前述した通りでありますが、刻を更に刻んではおりません。 すなわち、1時間60分、1分60秒という概念はありませんでした。 それでは、何故こういう定義がされたのでしょうか。 ルネッサンスの時代に、ヨーロッパでコペルニクスやガリレオが主張した地球は円いという学説から、天文学が発展し、ケプラーが太陽と惑星の関係を紐解き、ニュートンによる物理、数学、そしてアインシュタインの相対性理論、更に量子論などの発展で、ミクロの世界とマクロの世界を探求し出してからです。 これらの学問の基本にあるのが時間でした。 彼らがミクロの世界を探求する為には、時間の刻みをもっと細かくしなければならなかったからです。 21世紀の科学の世界はナノ(10億分の1)秒世界まで時間を刻もうとしております。 間接的には関係あっても、一般の我々の生活には何ら関係の無い世界での話であります。 現に、我々が一般生活する上で分、秒の単位で生活などしておりません。それなのに分、秒があるのです。 何を言いたいのかと言われるかも知れませんが、ここが非常に大事なところであるのです。 普通の生活では時間・刻までで充分であるのに、分、秒がありますと、人間の脳や精神にある、時間の感覚が変わってくるのです。 実生活では時間単位で充分なのに、いろいろな取り決めで、分、秒があると脳や精神も分刻み、秒刻みの感覚に陥っていきます。しかしそれは実勢に適っていない。 だから精神や脳に支障をきたして、分裂状態、ノイローゼになる原因がここにあることを認識しなければなりません。 時間が神だという前提で話を展開しているここでは、神は分や秒など必要ないと考えていると言いたいのです。 すなわち、科学の発達もいい加減その辺りで自重しないと天罰を食らわせるぞ、と言っているように聞こえます。 1時間60分、1分60秒は、我々にはまったく何の影響もない概念であることを忘れないでください。 先進国になればなるほど、時間に追われる生活スタイルになり、精神に障害を起こしやすい環境になるようです。 それも人間に時間を刻むことが出来る資格などないのに、どんどん刻むことから起こる現象だと思うのです。 |