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Chapter 17 実在と実存 時というのは、空間を時間という幅で積み上げた四次元世界の入口と出口だと考えたらいいのではないでしょうか。 要は四次元世界への切り口であるのですが、一般的な表現をしますと、現在この瞬間であります。 現在この瞬間に在ることを実在と言うのですが、この宇宙空間は四次元世界であり、時間の幅で積み上げた個人個人の四次元世界も在るわけで、それを実存と言っていいでしょう。 実在も実存も、両方とも個人観であるのですが、違いは実在は三次元空間世界であるのに対して、実存は四次元時空世界であることです。 ある実存主義者が、「他人が地獄」と言っておりますのは、自分が実存する四次元世界と他人が実存する四次元世界とがラップしたら、自分と他人とが区分け出来なくなり自分を失ってしまう。それを「他人は地獄」だと言っているのだと、わたしは解釈しています。 これほど傲慢な考えはないでしょう。 宇宙の中では、本来自分も他人も無いわけでして、すべて渾然一体であるのに、自分と他人を区分けして、しかも他人は地獄などと主張するのは傲慢以外の何者でもないでしょう。 ただ、時間という四次元要因をより理解するには、この実存主義という考え方は有意義だと言えることは確かであります。 現に四次元世界で生きておる我々ですが、三次元世界の認識しか無く生きておるわけですから、実存的発想は四次元世界理解の道への一里塚であるのです。 究極的には、すべての人間が実在する状態から実存する状態に行くことは出来るのです。 行くことが出来るというのは適切な表現ではありませんが、こう言うしかないのです。 インドの釈迦が苦行の末、悟りの境地に達した。その時、彼は悟りとは達成することではなくて発見だったと言っています。 彼は達成するものだと思って、どんなに辛い修行も他の修行者よりも完璧にやったと伝えられています。しかしそれが意味のないものだと解ったのです。 すべての人間が生まれながらにして具えているにも拘わらず、気づいていないだけで、悟りとは、その気づきだということを発見しただけのことだと言っているのです。 同じことが、実在と実存について言えるわけで、究極的には実存の世界に行くことが出来ると言いましたが、いまここに我々は実存の世界で生きておるのですが、それに気づいていないだけのことなのです。 それは時間の捉え方によって実在にもなるし、実存にもなるわけです。 釈迦が言った、「色即是空・空即是色」の色が実在であり、空が実存であるわけです。 時という時間の切り口に焦点を絞ると、三次元空間の世界すなわち、「いまここの世界」が現れるのです。 時という時間の切り口を入り口と出口にして、その間すなわち時間の要因を加えた四次元世界にすると、あなたが実存する世界が現れるのです。 究極的には実存の世界に行くことが出来るのは、あなたの肉体という立体が消えてしまう、つまりあなたが死ぬと、あなたがあなたと認識している肉体という三次元空間の世界から、あなたが生まれてから死ぬまでの、時間という幅のある、本当のあなた−想いであるあなたのことですが−の四次元世界がぱっと現れる。これがあなたの実存する世界なのです。 従って、死ねばどんな人でも自分の実存世界を知ることは出来るのですが、生きていながらにして知るのが難しいわけです。 難しいがその方法はある。 それは、時という点から時間という幅−線と言ってもいいでしょう−で自分の実在世界を観ることです。 ところが、ここに落とし穴があります。 過去から未来へと移り行く時の流れが時間なのですから、過去・現在・未来を観ることを、過去に囚われたり、未来に囚われたりすることと勘違いする危険性があり、現に人間は現在に生きずに、過去・未来に生きておるのが実態であるのです。 もう一度申しますが、過去・現在・未来を一瞬にして観ることの出来る世界を実存の世界、過去・未来に囚われずに現在この瞬間だけを見ることの出来る世界が実在の世界であり、共に同質の1次元違う世界であるのです。 実在の世界を時という要因で積み上げて行く−数学的には積分の世界をいいます−と実存の世界になるということを理解して欲しいと思います。 |