Chapter 22 「神との契約」の欺瞞性

旧約聖書には、神との契約と呼ばれている約束ごとがあります。
一番有名なのは、モーゼの十戒がそうです。
要は神が人間に与えた戒め、してはならないこと、彼らは律法と呼んでいるようですが、この戒めを守れば、神は彼らを護ってくれる。
「お前が儂の云うことを守れば、儂もお前たちのことを護ってやろう」
これが、神との契約であります。
そして彼らだけに都合のいい契約内容になっており、彼ら以外の民族はみんな鬼畜扱いをしているわけです。
こんな馬鹿げた、神との契約なんて、本当に神はするのでしょうか。
もし、わたしが聖書をバイブルとする民であれば、そんなことを云う神などに護ってもらう気にはなれません。
別に彼ら民族を忌み嫌って言っているわけではありません。単純な理屈として、納得出来ないだけのことです。
しかし、宗教、そして神というものは、聖書のみならず、他のものにおいても大概そのようなものです。
これだけ科学を発達させてきた人類にしては、あまりにも稚拙過ぎるとは思われないでしょうか。
やはり当時の人間の方便が本音であると考えるのが、一番、筋が通るようです。
方便とすれば、何か目的、狙いがあるはずです。
本題は、この点にスポットを当てるのではなく、もっと筋の通った神の在り様をわたしは模索しているだけのことであります。
そうなりますと、もっとも基本的な基準は、万民が納得できるものでしょう。
人種、民族、国家を超えて、誰もが納得できる基準を主張し、実践しているものが、人間が勝手につくった神の中で、一番納得できる神の概念ではないかと思うのです。
世界中で、誰もが不平等感を感じないものに、どんなものがあるでしょうか。
太陽がそうでしょう。地球がそうでしょう。自然がそうでしょう。
これが、宇宙となると、納得できるようでも、ピンとこないほど人間とは、あまりにもかけ離れている。
やはり、太陽、地球、自然が一番しっくりくる。
本来の信仰が、自然崇拝であったのは素直な人類にとっては、至極当然の結果だと思います。
そこに擬似人類的な概念を神に適用した宗教のルーツが聖書であったようです。
ヤーヴェと呼ぶ神は、あたかも人間のようであり、人間と会話をし、「わたしは在るべくして在るものである」などと訳の分からない、それこそ人を惑わす神であるのです。
人種が違っても、民族が違っても、国家が違っても、宗教が違っても、変わりなく共通しているものがあるとするなら、それは時間だけではないでしょうか。
ある人種の時間の概念はこうだ。
ある国家の時間の定義はこうだ。
ある宗教での神と時間の関係はこうだ。
こういう風にみんな違うでしょうか。
神の概念は、みんな違うのに、時間に対してはまったく同じなのは何故でしょうか。
この科学の発達した時代においても、時間の概念は、昔とほとんど変わらない。せいぜい、秒以下の刻みがより細かくなっただけです。
「絶対」という言葉があります。
対を絶つ。から絶対です。すなわち比較しようのないものという意味でしょう。
英語では面白い現象があります。
「Ultimate」が本来の「絶対」だと、わたしは思うのですが、究極という意味で、「Un−Limited」有限でない、無限だという意味です。
一方、「The Absolute」といい、絶対者・神と定義していますが、その語源はラテン語で、Ab+Solvereから来ており、Abは「完全に」という意味で、「Solvere」は解放とか解くという意味です。
こちらの言葉は、まさに、聖書をベースにした思想から生まれた言葉でありましょう。
しかし、Absoluteは一般用語として使われており、Ultimateは形而上学的、哲学的(Metaphysical)用語として使われているところに、ヒントがあるように思えてなりません。
ギリシャ哲学以来、宗教者と哲学者(科学者)の相克は、この二つの言葉に集約されているように思うのです。
キリスト教世界でも、啓蒙思想家は、絶対という概念に、宗教者が言う神の概念は当てはまらないことを知っていたのでしょう。
究極のものは、やはり「時間」しかないと、わたしは思うのです。