Chapter 36 なぜ神はすぐ傍か

我々人間が、古代の昔から神を崇め、神に祈ってきましたが、果たして神にその想いは伝わっていたのでしょうか。
神の概念について、ここではっきりしておかなければならないことがあります。
わたしが、この「神はすぐ傍」で論及している神は、宇宙を貫く神であり、人間だけの為の神ではありません。
そういう点においては、神という言葉を使うこと自体、問題があります。
しかし、人間の歴史上、神という存在は、創造主たるものという意味合いもあって使ってきたので、敢えて神と言った方がなじむであろうと思ったからであります。
もう一つの意味合いとして存在する神は、人間の為の神であります。
この神は、宇宙を貫く真理を顕現している神ではありません。
敢えて言うならば、人間の祖先の魂の存在を信じ、それを神と称しているだけであります。
肉体は滅びても、魂は永遠に生きている、あの神であります。
唯物論・唯心論の論議は、この神についてであり、輪廻転生を信じるか否かも、すべては、肉体が滅びた後の想いの行方についての問題であります。
限りないほどいろいろな宗教が雨後の竹の子のように誕生していますが、世界の宗教になっているキリスト教を筆頭にあらゆる宗教は、結局は人間の為のご利益宗教であり、人間が絶滅すれば、それと共に消滅してゆく宗教であり、神であります。
ヤーヴェの神やアラーの神、シバ神や、オーデインの神などは、人間が存在しなくなったと共に存在感を失ってしまうでしょう。
こういった人間にとってのご利益宗教が生んだ神の概念は、それぞれの人間の選択に委ねれば良いとだけ申しておきます。
正しいとも言えないし、間違っているとも言えない、単なる好き嫌いのレベルの問題と考えた方がいいでしょう。
好き嫌いの問題で意見が食い違うから、殺し合いまでするのです。
ライオンはシマウマや鹿を食うが、ハイエナを食わない。ハイエナや禿鷹は、食えるものなら、腐っているものでも何でも食う。
これはライオンの精神性レベルが高くて、ハイエナや禿鷹の精神性レベルが低いという問題ではなく、単なる好き嫌いの違いだけであります。
これと同じレベルで、宗教観が違うと大袈裟に言って、殺し合いをしてきたのが、愚かな人間社会であったのです。
そして、現在でも、イスラエル・パレスチナ問題、インド・パキスタンのカシミール紛争と、同じことが繰り返されているのです。
わたしは思うのであります。
宇宙を貫く神に対する人間としての理解と、人間だけの為の好き嫌いで生まれた神に対する想いを、はっきり区分けするべき時が来たと思うのです。
好き嫌いで生まれた神を否定しているのではありませんが、これはライオンとハイエナの、食べ物の好き嫌いの問題レベルと同じものであると認識しておればいいのではないでしょうか。
狩猟型肉食民族はライオンやハイエナのような肉食生活を好み、農耕型民族はシマウマや鹿のような草食生活を好む、それだけの違いであり、これは地球レベルの食物連鎖を考えれば、共に自然摂理上、必要なものです。
人間が戦争という人殺しをするのも、食物連鎖の為せる自然現象だと考えていいのではないでしょうか。
しかし、一方で生命体として最も進化した人間に課せられた責任は、この広大無辺な宇宙の中で、なぜ地球に生命体が生れたのかを、宇宙の実態を知ることによって解明してゆくことではないかと思うのであります。
多くの学者の努力によって宇宙の実態が解明されていく過程を、わたしがここで説明しているのは、すべての人間がそのことを認識すべき責任を持っていると思うからです。
何ゆえ、我々生命体は、この宇宙に存在しているのか。
何ゆえ、我々生命体は、生まれては死んでゆくのか。
何ゆえ、我々生命体は、生きているのか。
このことを知らずして生きているのは、虚しいことであります。
それを、教えてくれるのが神であると定義しての「神はすぐ傍」であることを、認識しておいて頂きたいと思います。
従って、我々人間の宇宙に対する理解と認識が深まれば深まるほど、神の存在理由も、より深いものになるのであり、現時点では「神は時間」と定義するのが、最も「神はすぐ傍」と感じることができるだろうと思うからであります。