Chapter 47 時間と仲良く付き合う

知的動物・人間にとって、時間というものが、深層意識下で天敵的存在となっていることに、みなさん気づかれたことがないでしょうか。
前Chapterでも、お話しましたが、人間が経験する、生きる苦しみの根本原因には、必ず時間との闘いが潜んでいるのです。
闘いと言えば、勝つ時もあれば負ける時もありますが、この闘いは勝負になりません。
100%時間の勝利であります。
カジノでの博打でも4−5%程度の勝つ確率があります。
わたしなどは、その確率に期待を持って、阿呆な賭け事に興じておるのですが、100%負ける勝負には、いくら博打中毒でも勝負はしません。
ところが、人間の大半は、その馬鹿げた賭け事をしておるわけです。
わたしが常々、博打を唱導しておるのは、ただ単に博打中毒が、中毒仲間を増やすためにやっておるような姑息な考えからではないのです。
0.000001%でも勝つ確率があるなら、それは99.999999%勝つ確率があるのと同じことなのです。
これは確率論を少しでもかじった経験のある方なら常識であります。
そうすれば時間を天敵扱いすることは、これこそまさに自殺行為であることがはっきりしてくるのであります。
問題は0か100であるわけです。
0と100は確率論の世界には無い絶対的概念でありまして、ニュートンやアインシュタインが主張する世界であります。
0.000001%から99.999999%は相対的確率論の世界で、不確定原理を中心にした量子論の世界の主張であります。
アインシュタインには考えつかなかった世界が神が存在する絶対的世界で、形而上学的な世界のものとして片付けるしか方法がなかったのでしょう。
逆に言えば、アインシュタインが考えつく世界には、神は存在しないと言っているのと同じことで、そういう点では、極めてPhysicalな人間であったと思うのであります。
だから、量子論の生みの親的存在である、不確定性原理を受けいれず、「神はサイコロを振りたまわず」と宣ったのではないでしょうか。
パラドキシカルに神そのものを否定していることになることが、あのアインシュタインでさえ気づかなかった。人間の執着エネルギーの凄さを物語っているように思えてなりません。
ニュートンは「プリンキピア」で、形而上学的世界をより重視した上で、ニュートン物理学・数学を展開していった。
そういう点では、アインシュタインよりも、よりMeta−physicalな人間であったと思います。
ニュートンとアインシュタインの決定的違いは、時空の概念、特に時間の概念の捉え方にあります。
ニュートンは時間を絶対的なものと考えた。
アインシュタインは時間を相対的なものと考えた。
今までのところ、時間の概念の捉え方において、唯物論が唯心論を凌駕しているのが現代世界であるように、アインシュタインに軍配が上がっているようです。
宇宙においては、時間が相対的であることは確かであります。
しかし、我々人間が存在している世界においては、時空の宇宙世界の法則など、どうでもいいことが多いことも確かでしょう。
我々の住む地球上では、時間はニュートンが考えたような絶対的概念と捉えた方が、遥かに有効であります。
また、現実に我々が光の速度以上の乗り物で宇宙旅行が出来る時代にならない限り、時間に制御されても、制御することは有り得ないでしょう。
20世紀の二大発見と言われる、相対論と不確定性原理では、「神がサイコロを振る博打好き」かどうかの点では全く相容れない見解ではあるのですが、時空はユークリッド的である前提条件に立っておる点では同じであります。
科学者という動物は、真理を探求するよりも、自己の理論をごり押しする性癖の方にエネルギーを傾けるものらしい。
そういう点において、17世紀に出現したニュートン的発想に、我々は一度立ち帰った方がいいのではないかと思うのであります。
その上で、時間と仲良く付き合うことが、21世紀を生きる我々の使命のような気がしてなりません。