Chapter 6   時間の基準(相対性か絶対性か)

暦というものがあります。
国によって、宗教によって、みんな違うようです。
暦だから、時間の定義をしているのでしょうが、これほどいい加減なものはありません。
キリストが生まれた時を起点としているのが西暦で、1999‐2000年は世紀末で、何か世界で恐ろしいことが起こると言われて、キリスト教徒でもない人間までが、世紀末だと騒いでおるのは、狂気の沙汰であります。
日本の場合は二月十一日が建国記念日であり、平成十四年は、日本建国二千六百六十二年目に当たるわけです。
公式祭日となっておる建国記念日がありながら、世紀末やらと騒いでおる頭は一体どうなっているのでしょうか。
中国は陰暦を採用しています。
アラブの国でも陰暦とマホメット誕生を暦にしています。
みんな国によって違うのです。
ただ同じなのがあります。
一日と、一年が365.25日というのは、どこの世界でも同じであります。
その理由は、キリストが生まれようが、死のうが、マホメットが生まれようが、死のうが、神武天皇が天皇に即位しようが、しなかろうが、全く関係なく、太陽が昇って朝となり太陽が沈んで夜となり、再び太陽が昇るまでが一日であり、一年は365.25日であるのです。
そういたしますと、人間がつくった暦というものの意図が見えてくるのです。
そんな意図など、どうでもいいのです。
一日というのは、地球が1回自転する時間であり、それを24刻みして1刻みを1時間としている、一年365.25日というのは、地球が太陽の周りを1回公転する時間なのです。
これは、人知を超えた真理であって、且つ地球上の存在するものだけの真理であって、別の惑星に行けば違った基準になるのです。
そうすると相対的な問題になってきます。
人間が年をとる、そして老いていく、そして遂に死がやってくる。
この基準は、一日24時間、一年365日6時間を元にしているのか、それとも絶対時間というものがあって、地球にいようが、火星にいようが、月にいようが、人間が生きる時間基準は同じなのでしょうか。
人間の時間基準は相対性がベースなのか、絶対性がベースなのか。
アインシュタインは宇宙の法則性は相対性だと言いました。
それなら、人間の寿命が80年だとしても、それは地球上だけのことで、木星や土星、冥王星に行くと、寿命80年は変わるということになります。
冥王星の1年、つまり太陽の周りを1回転するには、地球の公転の200倍かかります。
つまり冥王星に、もし人間が生きていたら、地球の200倍長生き出来るということになるわけです。
1千才以上の人間が、うじょうじょいることになるわけです。
もし人間が冥王星で生きたらどうなるのか。
人間の寿命80年は地球上での80年で、これは絶対時間の80年です。一方相対時間で考えますと、地球の一年は冥王星の200分の1年、80年は200分の80年、つまり冥王星では4分の1年しか生きることが出来ないのかと言いますと、それは違うのであって、やはり冥王星の1年単位で80年生きるのです。
絶対時間で考えると、人間の寿命80年はどの星に行っても80年ですが、相対時間では、それぞれの星の一年、即ち春夏秋冬の一サイクルは大きく違うのです。
従って、もし地球上の時間の感覚で、冥王星で生きることが出来たら−これは実際には不可能ですが−200倍長生き出来る感覚になるわけです。
しかし、それは冥王星に実際に行って体験しないと判りませんが、わたしの考えでは、冥王星に行けば、地球の時間、即ち一日24時間、一年365日6時間の感覚を忘れて、冥王星の1日、1年の感覚になるはずです。
何故わたしが、この考え方を主張するかと言いますと、地球上でも生きものによって、みんな誕生から死までの寿命が違うからです。星自体の誕生から死までの寿命もそれぞれ違います。
従って、時間の基準は客観的には相対的で、主観的には絶対的だと言えるでしょう。