Chapter 2 人間が創った神

聖書をバイブルにしたユダヤ教、キリスト教、イスラム教は絶対唯一の神とした一神教です。
しかも、その神の名前はヤーヴェ、父なる神、アラーと違っていても、結局は聖書に綴られている「我は在るべくして在るものなり」と称している神であって、それぞれの宗教で名前が違っているだけです。
ヤーヴェもアラーも同じ神であるわけです。
それぞれの宗教は、その唯一の神には絶対信頼と服従を誓っておるのです。
そんな兄弟宗教でありながら、何故彼らは殺し合いをしてきたのか、そして今でもイスラエル対パレスチナ問題で殺し合いをしているのでしょうか。
一体彼等の神は、どういうつもりで自分を信じる人間同士を殺し合いさせるのでしょうか。
兄弟が骨肉の争いで殺し合いをしているのを、喜ぶ親がいるでしょうか。
教えの一つ一つを捉えてみれば、それは崇高な教えが、ユダヤ教にもキリスト教にもイスラム教にもあるでしょう。
しかし、神を同じくする宗教が憎しみ殺し合いをするのでは、これは本来の形而上学的な意味合いでの宗教とは到底言えないのです。
所詮、かつてのヨーロッパ帝国覇権主義のドグマ(教義)と同じであります。
そういう点においては、崩壊した共産主義のドグマと極めて似通った傾向を、これら兄弟宗教は持っています。
古代、中世、近代と世界の歴史は変遷してきましたが、結局の処、何も変わっていないと言っていいでしょう。
支配者と被支配者の間での、弱肉強食の自然淘汰の摂理は依然保たれているのです。
何故このような明白な矛盾に人類は気づかないのでしょうか。
その原因は、過ぎ去った過去と、未だ来ぬ未来の中で、人間は生きてきたからであります。
過去から未来へと時間は進む、心理的な時間の矢の中では、ネガティブな記憶が大半であると申しました。
要するに、生きることは苦しみだという脅迫観念で人間は未だ来ぬ未来に対して不安を持って生きてきたのです。この脅迫観念が同じ神を崇めながらも骨肉の殺し合いをしてきた原因であるのです。
脅迫観念は身近なものに対してより強く持つものであることを忘れてはいけません。
それでは『死に対する恐怖は未知なもの故ではないのか?』と疑問を持たれるかも知れません。
これも人間が気づかなければならない基本的な問題なのですが、生と死は表裏一体のものであって、生つまり生きていることは身近な問題と捉えているのに、死は身近な問題と捉えていないからであります。
生は刻一刻と過去になって行く現在この瞬間である故に身近に感じているのですが、死はいつやって来るか判らない未来故に身近に感じていない。しかし死も同じようにある瞬間に必ずやってくる身近な問題であるのです。
生は現在この瞬間の時が過去へと移り変わっていくこと。死は未来からこの瞬間という時に突然やって来ること。
この現在瞬間に対して生と死は対称性を持っているから表裏一体であるわけですが、生は既知の過去、死は未知の未来にある故、死に対して脅迫観念を持つわけであります。
結局、死も身近な問題であり、決して未知なものではないのです。
ところが、もう一つの時間の矢で、心理的時間の矢と必ず同じ方向である熱力学第二法則のエントロピーの時間の矢は、既知のことである過去が良かったことで、それが時間の経過と共に混沌としたネガティブな状態にどんどん移行していくことを示しています。
この二つの時間の矢が絶対に同じ方向であることを認識していれば、過去や未来というのは、実は時間ではないことが解るはずなのです。
それを解っていないのが、絶対唯一神を信仰するユダヤ教、キリスト教、イスラム教などであります。
この三つの宗教を信仰する人間だけで、地球上の人間の半分を占めるでしょう。
そしてそれ以外の宗教でも唯一神でなくても、神を絶対視するものが大半であります。
実は、彼等がこの地球上に地獄をつくっておるのです。
神を信じる故に殺し合い、憎しみ合い、地獄をつくる。
そのようなものを神と言うのでしょうか。
殺し合い、憎しみ合い、挙句の果てに地獄をつくる原因が神であるなら、神はすぐに屑箱に捨てるべきであります。
しかし、そのような神は,今のところ屑箱にはおらず、賽銭箱の上段にある祭壇という護美箱の中にいるのです。