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Chapter 42 虚空間に生きる我々 事実とは、三次元世界で顕されたもので、四次元要因の時間の、ある時においての切断面であると申しましたが、それはまさしく実在と定義したものであります。 真実とは、事実(実在)という三次元世界に、時間の要因を加えた四次元世界で顕したものである、つまりそれが実存であるのです。 従って、五次元の要因と推論しました存在エネルギーを加えた五次元世界を顕したものが真理であると推論出来るのではないでしょうか。 実在が事実の三次元世界、実存が真実の四次元世界、そしてその一次元アップした処に真理という、五次元世界がある。 その五次元要因が存在エネルギーであるとするならば、存在すること自体が真理であると考えていいのではないでしょうか。 そうしますと、釈迦が産まれた時、天を指して言ったと伝えられている、「天上天下唯我独尊!」、そして、「どんな人間でも既に真理を体現している、ただ気づいていないだけ」という意味は、「世に生まれて、現にこうやって存在しているだけで、すべてのものは真理を体現している。ただ人間は、存在エネルギーが支配している時間にも支配されているために、時間の流れに振り回されて、真理を体現している自分を見失ってしまっている。それが煩悩である。つまり自己分裂状態になっていて、人生四苦八苦の原因はすべて、時間を支配している自己の存在エネルギーの忘却に因る」と解釈していいのではないかと考えられるのです。 自己の存在を忘れて、時間に支配された空間が自分だと思い違いしているなら、その空間は実在ではないということになります。 それを敢えて表現するなら虚空間と言ってもいいし、自己の虚像と言ってもいいでしょう。 そうしますと、虚時間が実は実時間ではないかと、PartIで申しましたことが、真実且つ真理ではないかと思うのであります。 従って、我々、三次元世界にいる人間は、真実、真理を探求しながらも、真実、真理から目を反らした生き方をしていることに根本的原因があるのではないでしょうか。 考えてみれば、至極当たり前のことですが、三次元空間までは、縦、横、高さの要因で線、平面、立体と知覚認識できるのに、時間が加わった瞬間、概念だけで、実体を知覚認識できないでいるこの時空間を、再検証してみる必要があるのではないでしょうか。 そうしますと、X軸、Y軸、Z軸、そしてそれら空間に直角に交叉するTという時間軸は、実は、過去から未来への一方通行の矢である心理的な時間が虚像の時間であり、今、ここにいる自己の実在に垂直にある虚時間こそが、ユークリッド時空間の四次元要因そのものであり、実時空間であると考えた方が自然であります。 我々が今まで、信じてきたこの世界が実は虚像の世界、つまり、今、ここに生きることをせずに、過去や未来に想いを馳せた虚空間であり、今、ここだけにいる実在の自分に生き切るということは、今、ここの点にのみ垂直であり得る虚時間の中にある実空間にいるということであるのです。 虚時間こそが実は実時間であり、実時間と思っていた中で生きてきた時空間こそ、実は虚空間であったのです。 従って、今、ここにある実在の自己を、虚時間の中に置いて、過去や未来といった水平線上の心理的時間の矢に向かわずに、垂直の方向に向かう実在の自己こそ真実へ向かう自己であり、真理に包まれた自己でもあるのです。 そして初めて、時間に支配されながらも自己の存在エネルギーという真理を体現している自分を思い出すことが出来るのではないでしょうか。 般若心経にある、「色即是空」の色とは、今、ここにいる実在の自己であり、空とは、虚時間に向かった自己が見出す虚時間の空間(虚空間ではない)にある真実の自己であり、更にそこから真理に繋がる自己であるのです。 垂直に向かう限り、水平線上の心理的時間の矢にとっては、時間が静止した状態、つまり今、ここに永遠にいることに他ならないのであります。 「空即是色」は五次元世界から四次元世界、そして三次元世界の、今、ここに戻る反対のベクトルであります。 悟りとは、実在の自己から出発する真理の探究であり、又、神から実在の自己に真理を与えられる恩恵でもあることが根本であると思うのです。 |