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Chapter 45 神の連想ゲーム 我々にとって時間は、最も強力な支配者であります。 如何なる独裁者よりも強力です。 時の流れの中で死んでいくのですから、どんな独裁者も時間には叶いません。 そういう観点からすると、やはり時間が神と定義せざるを得ないのではないでしょうか。 我々、時間に支配されている人間が時間の奴隷から解放されるにはどうしたらいいのかという問題が、五次元要因が微かに見えて来たことによって、一点の光が射し込んできたように思われないでしょうか。 何故なら、我々を奴隷にしている時間を、奴隷にして支配しているものが解りかけているのですから。 時間というものは両刃の剣であり、使い方によっては神にもなるし、悪魔にもなり得るものだと、以前申しました。 神という概念にも、どうしても二元論を持ち込まなければならない。 悪があるから、善が存在する。悪がない善など存在し得ない。 不幸があるから、幸福がある。不幸のない幸福など存在し得ない。 この二元論が闊歩する世界が、我々三次元立体の世界であります。 それなのに、善ばかり求め、幸福ばかり求めている人間は愚かです。 三次元世界は二元論の法則が通用する世界だから、悪も不幸も受け入れなければ、善も幸福も有り得ないのです。 しかも、この二元要因が必ず交互にやって来る、これが敢えて言うなら、時間という神の情けかも知れません。 奴隷と云えども、酷使し続ければ死んでしまって、死んでしまえば元も子もなくなることを時間という神は充分承知しているのです。 だから不幸の後には、必ず幸福を与えるのです。 そういう意味では時間が神という概念も、人間にとっての神と言わざるを得ないわけであります。 わたしが、人間だけの神など、宇宙から見たら有り得ない、それは人間の傲慢さから生まれたものである。従って宇宙すべてに適応される神でなければ、本当の神ではないと申してきました。 そして時間が、それに最も適うものではないかと提唱してきました。 しかし、その時間も時には悪魔にもなるなら、やはり宇宙を貫く神ではないでしょう。 「神の自叙伝」では、神と云えども全知全能ではないと申しました。 しかし、その中で絶対宇宙なる、人知を超えた存在が、実は我々宇宙に存在するもののルーツであるとも申しました。 「神はすぐ傍」はその人知を超えた絶対宇宙なるものを、ほんの少しだけでも垣間見ることが出来たら、二元論世界で四苦八苦している我々人間に、微かな光を見ることが出来るのではないかという想いから書き始めたのであります。 真暗闇の中に、一点の光が射し込むだけで、暗闇は消滅してしまいます。 暗闇の中を出口を求めて手探りしていては、迷路にはまり込んだも同然であります。 一本のマッチさえあれば、その暗闇の中でマッチを擦れば、一瞬にして暗闇は消え去っていきます。 しかしマッチを持っていなければどうしようもありません。 このマッチこそが、時間を支配するものの発見であるのです。 あなたより強いが故に、あなたを支配している者がいるならば、その者よりも強い者を探し出すことです。 そしてその存在を認識さえすれば、あなたを支配してきた者は、あなたに摩り寄って来て笑顔を見せて来ます。 何故なら恐怖・不安の実体は、実在するものでなくて、概念であるからして、認識さえすれば、暗闇でマッチを擦って光を射し込むのと同じことが起こるわけです。 時間という四次元要因が、我々が存在する三次元世界を支配しているのは真実であります。 しかし五次元要因が、時空間の四次元世界を支配しているのは真理であります。 それならば五次元要因を認識することが、三次元世界の法則である二元論から脱出する唯一の方法であることを忘れてはなりません。 時間というものは、人間にとって確かに神であります。 しかし悪魔でもあります。 それ故に、時間を超えるものの存在を認識することが必要です。 あなたにとって偉大な人であっても、その偉大な人を超える人にとっては、あなたにとっての偉大な人は唯の人であります。 時間が我々の神であっても、時間を超える絶対宇宙にとっては、時間は唯の時間であります。 従って、絶対なる神など存在し得ないことに帰結してしまうわけです。 ただ、「果て」の向こうには何がある?が有り得ない質問であるなら、「果て」という絶対宇宙ですべては終わりになり、神の定義の連想ゲームもそこで終了と相成るわけであります。 |