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第六章 塾の終焉 小学生相手に優秀な私立の中学校に行くための大手塾がある。 川田塾と言って、今や東京のみならず全国展開している塾だ。 巷の噂では、川田塾の川田オーナーは所得番付でサラ金の大手・武山のオーナーの次らしい。 川田塾で雇われている先生は、一流大学を卒業して一流企業に就職したが、性格的に捻れているために、使いものにならずに脱落した連中が大半だ。 それでも頭脳は学校の先生より遥かに優秀な連中である。 かつての学校の先生は、使命感を持った優秀な頭脳の人間しかなれない職業だった。 しかし大阪で万国博覧会が開催された一九七〇年頃から、日本の国の進む方向が急旋回しだし、すべての価値基準が変わってしまった結果、先生という立派な職業に就くのを嫌う風潮が出てきて、優秀な頭脳は一流企業に吸収されだすという極めて深刻な事態になったのだ。 当然、先生という職業の位置は急落し、一流企業に就職するのに失敗した人間が先生の職に就くという極めて深刻な事態になったのだ。 特に中学、高校の先生に多い変化だった。 そうして学校の先生もサラリーマン化し、学校も、尊敬される先生がいなくなり、精神を学ぶ場でなく、ただ進学するための予備校化してしまった。 そうなると、一流予備校、二流予備校の差別化現象が起きて、塾の出現となった。 その時、塾の経営者は機を見るに敏なだけに、一流企業で脱落した頭脳だけ優秀な人間を塾の先生としてスカウトした。 応用力がないから一流企業で脱落したが、知識の取得・記憶の競争なら得意である塾の先生たちは、如何に要領よく一流校に進学出来るかのテクニックを追求した教え方をした。 ところが洗足小学校の始めた教育は、実践的で、知識の取得・記憶のレベルアップを目指したものではない。 そして南平台小学校も、同じ教育方法を採用して対抗試合をやることになったのが世間の話題になった。 この流れに危機感を持った川田塾は金の力で政治家を動かし、文部科学省に圧力をかけた。 文部科学省の審議官が南平台小学校の校長に電話をかけ、対抗試合を中止するよう脅しをかけてきたのだ。 南平台小学校の校長はすぐに洗足小学校の校長と協議した結果、徹底抗戦することを決めた。 PTA会長の上村筆一も同席して、行政の横暴さに憤激し、大野武吉に話した。 武吉は文部科学省の審議官を呼びつけた。 「君たちは、自分の省庁の利だけでしか判断できないのか!」 普段おとなしい武吉が怒鳴りつけた。 「お言葉を返すようですが、戦後、この国の繁栄を築いてきたのは、あなた方政治家でも、馬鹿な国民でもなく、我々選ばれた者です。我々の考えた通りに政治家も国会で喋っていればいいし、国民もついてくればいいのです」 平然と答える審議官に、武吉は次の言葉が出なかった。 しかし、このまま引き下がるわけにはいかないと思った武吉は、審議官に提案した。 「それなら川田塾の塾生も、対抗試合に参加したらいいだろう。それでどうだ?」 審議官は自信満々で、その提案を受けた。 いよいよ対抗試合の日がやって来た。 十月一日、南平台小学校に川田塾の塾生男女三十名が自信満々にやって来た。 洗足小学校の四年生から六年生までの男女それぞれ五人も緊張した面持ちで校長先生じきじきに引率されてやって来た。 「君たち緊張するのは仕方ないが、今日の試験はゲームだ。自分を試されているわけではないから楽しんでやりなさい」 校長先生に言われて肩の力が抜けたらしく、やっとみんなから笑顔が出てきた。 しかし、そんな中でも太一は悠然としていた。 「太一。お前全然平気なのか?」 岩田浩が聞くと、へらへら笑って、「だって校長先生も言ってたじゃんか。これはゲームだって。僕は今までの学校での試験もすべてゲームだと思ってやってきたから緊張なんかしたことない。ただIQテストの二回目の時は、ちょっとしたけど」 さすが、あの時の太一の表情はいつもと違っていた。 「浩は緊張しているのか?」 太一に聞かれて浩は正直に「うん」と答えた。 一方、健吾は持ち前の性格か、淡々としていた。 健吾の場合は太一のように線が太いのではなく、線の質が違うのだ。 「健吾は、どんな時でも一緒だな」 太一に言われた健吾は、そういう自分を嫌ってはいなかったが、あまりいい性格だとは思っていなかった。 太一や浩のように、何でも自分の気持ちをオープンに出来るのを羨ましく思っていた時もあったが、少しずつ変わってきている自分に満足していた。 「そんなことないけど、正直、太一が言うようにあまり緊張しないよ。僕はゲームのような気持ちにはなれないけど」 健吾の素直な気持ちだった。 それを聞いていた佳代が、小さな声で言った。 「健吾君はすごく変わったわ。前の健吾君もよかったけど,今のもいいわよ」 横から、恵津子が、「わたしは、今の健吾君がいいなあ!」 「何だよ!健吾ばっかりもててよう!」 そう言って口を尖らせている浩も緊張がとれたようだった。 いよいよ試験が始まった。 午前中に三科目、午後二科目のハードな試験で、しかも体力の要る試験だった。 決して頭に入っている知識や記憶だけで解答出来るような試験ではなかった。 脳味噌も体も汗を思い切り掻くものだった。 午前の三科目が終わって、みんなが昼食をしていると、川田塾の塾生たちが一人もいなくなった。 騒然となった中、南平台小学校の校長先生が、「こんな試験は、試験でないと言って放棄したようです」 と言うと、今回の対抗試合の取材を許可された徳売新聞社の記者が、「これは卑怯ですね」と言って怒りの表情を抑えながらも呟いた。 話題になっていただけに、各新聞社から取材申し入れがあったが、校長先生の協議で、購読者獲得にやっきになって、内容のおそまつさと、偽りの記事ばかりを書く大手新聞社の取材は断った。 その中で、常に取材される側の立場も考慮して、興味本位の記事ではなく、読者の啓蒙を理想として新しく誕生した徳売新聞社の取材だけは受け入れた。 真相は取材を受け入れたのではなく、学校側から徳売新聞に取材をお願いしたのだ。 二人の校長先生が、徳売新聞社に出向き、事の趣旨を説明して記事にして欲しいと依頼したのだ。 「お二人の趣旨はよくわかりました。わが社は、その名の通り徳を売る新聞社で、金儲けに協力することは一切しない方針です。広告宣伝もこちらからスポンサーを選ばせてもらっています。やっと、最近になってまともなスポンサーが出てきましたね。やはりこの国は落ちるところまで落ちないと自浄作用は働かないようです。趣旨に沿った記事を書かせて頂きます」 社長がじきじき受けてくれたのだ。 試験結果が出て、結果的には、四年生と六年生は南平台小学校の成績が良く、健吾の五年生は洗足小学校が優った結果になった。 両校の生徒たちはみんな勝ち負けなど関係なしでお互い健闘を称え合った。 その光景を見ていた記者が、「この光景が一番の成果でしたね」と二人の校長先生に言うと、「うん、うん」と嬉しそうに声を震わせて言った。 翌日、徳売新聞に記事が出た。 あまり大袈裟に書かずに、真実あったことを淡々と書いていた。 それ以降、川田塾をやめる子供が続出した。 |