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第一章 薪能の夕べ 平成13年7月26日、午前9時の就業チャイムが鳴ったと同時に阪本隆二の机の上の電話が鳴った。 「もしもし、阪本君?高田です、おはよう」 「ああ、高田社長ですか、おはようございます。どうしたんですか?朝一番から」 何か嫌な予感がしたが、おくびにも出さずに淡々と応対した。 「君は、当社が閉鎖するようなことがあれば、本社に帰らずに辞職すると前々から言っていたが、その気持ちは今でも変わっていないのかい?」 この言葉で、隆二は察した。 「先週の23日金曜日の役員会で、正式に閉鎖することに決定した」 『ついに来るべき時がやって来たな!』 隆二は、以前から予想はしていただけに驚きはしなかった。まったく動揺しなかった訳ではないが、淡々と答えた。 「はあ、そうですか。やっぱり閉鎖しますか。それなら、辞職します」 半ば衝動的に答えてしまったが、別に後悔はしなかった。 しかし、この会話が、その後いろいろな人間を、抜き差しならない事件に巻き込むことになるとは、隆二の頭の片隅にすら浮かぶべくもなかった。 「君のことだから、一旦口に出したことを飲みこむようなことをするわけはないと思っていたが、やっぱりそうか。君も営業幹部の一人だから、会社閉鎖に伴う顧客とのトラブル処理を、やってもらわなければならないことぐらいは分かってくれるね」 『社長は俺のことではなく、顧客の終戦処理のことが心配なんだ!』と内心呟いたが、「それは重々承知しています」と答えた。 「それじゃ、君が管轄している西日本地域の顧客終戦処理の打ち合わせをしたいので本社に来てくれないか?」 高田社長は親会社の(株)トーホー商事の取締役でもある。 隆二が子会社のトーホーテクノに出向する2ヶ月前に社長として就任した。 親会社で上司部下の関係は一度もなかったが、20年以上の浅いが長い付きあいをしていたから、お互いよく知っていた。 高田社長は敬虔なカトリック信者で、真面目一筋の技術屋サラリーマンだが、鋭い直感力の働く隆二は、高田の偽善性を見抜いていた。 関東地方の駅弁大学を卒業して、しかも関西系企業である会社に就職するだけでも、頭をかしげていたが、その高田が取締役になったとき、高田の内に潜む悪魔の姿を見透かしていた。 『日本の大企業で幹部になる連中は、程度の差はあっても99%己の魂を売っている。ましてやトップになる人間は100%悪魔に魂を売っている』 24年間のサラリーマン生活をやってきた隆二が、骨の髄まで知り尽くした真理だ。その中で、高田のこれまでの出世は、並々ならぬ苦労があったはずだ。 『あれだけ上司や権力者に滅私奉公するエネルギーを仕事に向けたら、一流の技術者として、どこの世界でも通用できたのに・・・』 隆二は高田に対してそう思ってきた。 東京本社の前に立った隆二は憂鬱な気持ちだった。20年以上の付きあいであったが、高田と顔を会わせると考えただけで気持ちが暗くなるのだ。 「おはようございます!」 社長室に入った隆二は、今までにない愛想のいい高田に複雑な気持ちだったが、憂鬱な気持ちは少し和らいだ。 愛想よく話す高田の顔を見て、隆二はギクッとした。 『この目だ!底無し沼のような、この目が俺を憂鬱にさせていたのだ。これは悪魔が潜む目だ!』、そう思うと、隆二は高田の言葉など耳に入らなくなっていた。 「そういうことだから、阪本君、終戦処理をきっちり終えるまでは辞めずに頼むよ」 「わかりました」と言って東京本社を出た隆二は、近くの公園で嘔吐した。 『あの男には、悪魔が潜んでいる!』 それから一ヶ月が過ぎた。 会社を閉鎖すると発表した波紋は全世界に広がった。 終戦処理に追われてあっという間の一ヶ月だったが、その中で頭の痛い問題が一つあった。 大量に買ってくれていた顧客の終戦処理が予想した通りこじれた。 その顧客先の服部社長が隆二と高田を薪能に招待してくれたのである。 服部社長は兵庫県の加古川に住んでいて、薪能の趣味があった。 加古川は昔から薪能が有名で、およそ千四百年前に聖徳太子に重用されていた秦川勝という帰化人が、加古川の地に移った時から始められた能の一種だ。 聖徳太子の死後、太子の一族が法隆寺で蘇我入鹿によって絶滅され、身の危険を感じた川勝は自ら現役を退き、日本での故郷である加古川の地に移ったのだ。 能の開祖、観阿弥・世阿弥親子も秦一族の支援で世に出たのだ。 「阪本君。服部社長は、どうしてわざわざ薪能に招待してくれたのだ?うちの会社が迷惑をかけたのに、なにか罠でもあるのじゃないか?」 高田社長は暗くなりかけた夏の宵の能舞台の一番前の席で、おそるおそる隆二に訊いてきた。 薪能は、文字通り夏の夜に屋外に能舞台を設置し、まわりを薪で照らし、能樂を披露する。 およそ2時間で能樂が終わり、服部社長が一席用意してくれていた。 「高田社長さん。例の件は、この前のそちらの提案で結構です。阪本さんには、いろいろ公私ともにお世話になったし、早く決着しないと彼を自由にしてやれないから、そう決めました」 予想もしなかった服部社長の言葉に、高田社長は驚きと歓喜の表情を全面に表して、畳に頭をつけんばかりに礼を言った。 何十台という高価な機械を買わせておいて、事業撤退をするということは、どれだけ客に迷惑をかけるか計り知れない。それだけでも損害賠償訴訟を起こされても仕方ない。それに輪をかけてひどいのは、事業撤退の決定を営業幹部に知らせたのが7月26日で、その一週間後に世界に発表するという本社幹部の営業軽視の無責任な感覚だ。 さらにひどい事件があった。 一ヶ月前の6月末に、業務担当役員の佐藤から隆二のところへ電話があった。 「阪本君。今月の工場出荷数が計画より少ない。君は服部社長に信頼されているから、服部社長のところへ10台出荷させてもらえるよう頼んで欲しい」と強引な依頼をしてきた。 隆二は腸(はらわた)が煮えくりかえる思いだった。 「佐藤業務部長は、事業撤退計画の実質推進責任者だったのでしょう?」 何気なく隆二は高田に帰りの車の中で訊ねた。 「そうだよ。社長である僕を飛ばしておいて、本社の山科専務と勝手に進めていたんだ。阪本君、トーホー商事という会社はひどい会社だ。君はもう辞めていくから正直に言うが、こんな公私混同の激しい不公正な会社はない。僕も君のように潔く辞めたいのは山々だが、本社の取締役でもあるから、来年の株主総会まで責任を果たさなければならない。その暁には、必ず僕も君のように潔く辞めるからね。服部社長が訴訟も起こさずに円満に解決してくださったからよかったが、この件を本社の増柿社長に報告したら、君を首にしろ!と言って怒鳴るんだよ。まあ、君はその時、既に辞職の意思表示をしていたから、こうやって言うんだが・・・」 隆二は憤慨して高田に言った。 「何故、わたしが首にされないといけないんですか?」 「さあ、僕にも判らないな!」 「何という不条理な会社だ!」と隆二は思った。 |