第五章  親友との集い

“人の噂も七十五日”と言うが、佐藤の事件から1ヶ月が経つと、誰もがそんな事件など忘却してしまう。
そんなある日、隆二が久しぶりに友人と夕食をするために上京した。
「阪本さん。サラリーマンを辞めて、どうですか?」
友人の和田茂樹が言う。
「すっきりしたでしょう・・・。あなたは、もともとサラリーマンには向いていなかったから、却って良かったと思いますよ」
和田茂樹。
嘗ては大手総合商社マンだったが、今は中小企業の経営者だ。
隆二とは十数年の付きあいで、彼より二つ年上だが、お互い利害関係なしの仲である。
福沢保子。
茂樹の商社時代の同僚で、今では茂樹の番頭役を自認している女性だ。
トーホー商事にいる時から、彼らと気楽に食事をしているひと時が、一番気が休まる隆二は、サラリーマンを辞めてからも、時折東京にやって来ては彼らと会うのが楽しみだった。
「これから、どうするんですか?」
茂樹に訊かれても、先のことを何も考えずに辞めたのだから、何も答えられなかった。
「本当はこういう時こそ、わたしが手を差し伸べるべきなんでしょうが・・・」ぽつりと呟く茂樹に、保子が横から言った。
「そんなこと言ったら、阪本さんが迷惑がるだけですよ。社長!」
「そりゃそうだな。うちのような中小企業なんかで仕事する人じゃないよな!」茂樹は頭を掻きながら笑った。
『自分のことを気にかけてくれているんだな・・・』
内心胸にジーンと来るものがあったが、逆に大きな声で笑いながら隆二は答えた。
「宮仕えの身はもう結構です!」
「阪本さんほどの能力があれば、どんなことでも出来ますよ」
保子が神妙な表情で呟くと、茂樹も横で領いた。
「いやあ!正直言って、これからのことはまったく白紙状態です。でも不安はないです。それは過去20年間、自分の体に投資してきた蓄積があるという自信でしょうか。サラリーマンであっても、なんどき世間というジャングルに出ても、生きてゆける自分をつくってきたからでしょうか。よく和田さんに話する、『ライオンとシマウマの話』ですよ。一般のサラリーマン人生を送っていたら、とてもこんな状態で会社を辞めることは出来なかったでしょうね。いつも食出者扱いをされてきました。大企業で食出者と言われている者が概して世間で通用するんです。大企業でエリートと呼ばれ出したら、それは世間ではまったく通用しない、保育箱で育てられた未熟児であると認識すべきです。これは憂慮する事態であるのに、エリートだと思って悦に入っている連中は、実は一番阿呆な人種なのです。わたしは、こういう連中のことを自覚症状のない音痴だと呼んでいます。こういう場所でも、自分が音痴だとも知らないで、ただ騒音としか思えない音を発して、まわりに不快感を与えているのがいるでしょう。もっと己を知れ!と言いたくなります」
隆二がこういった話をしだすと和田は嬉しそうに聞いている。気持ちが好いのだろう。
「福沢さん。『醜いアヒルの子』の話を知っている?
阪本さんは醜いアヒルの子だと僕はいつも言っているんだ。実は白鳥の子なのに、どこで間違えたのかアヒルの集団の中に紛れ込んでしまった。アヒルからすれば変わり種のアヒルの子に見えるのだけど、大人に成長すればアヒルなど足下にも及ばない立派な白鳥になり、はじめてアヒルの連中は気がつく。
これから多分阪本さんはサラリーマンというアヒルの連中に、自分は白鳥だと思い知らせることになるでしょう。僕はそれが楽しみで仕方ないんだ!」
「そうですね。わたしたちもアヒルの集団の中で生きていましたからね。わたしたちも白鳥なんですかね?」
「福沢さん。何を馬鹿なことを言ってるの!僕たちはアヒルじゃないけど、白鳥でもないですよ!せいぜいペリカンぐらいかな・・・」
みんなで大笑いした。
『こういう会話が出来るのがいいんだ!』
隆二は内心思った。
丁度その時、青山通りを救急車とパトロールカーのサイレンが鳴って走り去って行った。
三人はいつものコースで赤坂に飲みに行った。
隆二はジャズピアノを弾くのが得意で、二人と飲んだクラブはピアノバーがあって、隆二が行くと店のマスターから必ずリクエストされ、ついつい調子に乗って弾いてしまう。
店はジャズコンサートに変わって、客が大喜びする。
夜中の2時まで赤坂のクラブで二人と飲んでホテルに帰ったのは2時半過ぎだった。
眠気と疲れでさすがにシャワーを浴びる気もなく、そのままベッドに横になって眠ってしまった隆二が電話の音で起こされ、時計を見ると8時を過ぎていた。
「もしもし、和田ですが。まだ寝ていましたか?」
ぼっとしながら返事した隆二は茂樹の話で目が醒めた。