第八章  怒りの死顔

『喜怒哀楽の般若の面か・・・。
だが、どうして犯人は般若の面を殺人の現場に残したのだろうか。佐藤さんが悲しさの面、佐藤夫人が喜びの面。残るのは怒りと楽しみの面だ。
永井刑事が言ってたように、犯人は異常な考え方を持った人間であることは確かだ。高田社長に疑いが掛っているようだが、あの底なし沼のような、深淵な目の奥に潜んでいる魔性は不気味だ・・・』
隆二は佐藤夫人の通夜も告別式も行かなかった。残された子供たちを見ることに耐えられないと思ったからだ。
代わりに告別式に参列した女房が帰ってくるなり、吐き捨てるように隆二に言った。
「あなた。あんな会社辞めてよかったわよ。会社の人、誰一人来てなかった。樒(しきみ)ひとつも送ってないし、弔電もないのよ。ひどい会社ね!」
憤懣やるかたない気持ちを隆二にぶつけたのだ。
『いつから、あんな風土の会社になってしまったのだろう。昔はもっと温情的な面があったのに・・・。文官派というか、参謀というか、現場を経験していない人間が偉い地位を独占しているからだ。そんな風土をつくったのは、先々代の社長が余りにも公私混同し過ぎたからだ。器量が小さいというのか、臆病で猜疑心が強いため、自分の側近しか重用しない。自分から現場に降りて来ないから、側近でない限り社長の目に触れることがない。これでは実績を上げても、まったく評価されない。みんなが上のご機嫌を取ることばかりに腐心するようになり、どんどん世間の常識から外れていっていることに気がつかない。トップの資質次第で会社は良くも悪くも変わる。特に総合商社というのは、人材が商品だけに、原点を外れると、会社の風土はがらりと変わる。今が最悪の状態だ・・・』
辞めてしまった会社なのに、つい批評をしてしまう。
『まだ垢が抜けていないんだなあ!』と思うと、なんだか寂しい気持ちになるのだった。
その時、電話が鳴った。
「あなた。永井さんという方から電話よ!」
「もしもし。阪本ですが」
「新宿警察の永井です。般若の新しい面がまた出ました。今度はどこだと思いますか?」
およそ刑事らしからぬ電話の会話だった。
「刑事さんは、面白い、ユーモアのある方ですね。あなたのような刑事さんだったら、一般大衆もみんな協力しますよ。なんと言っても、人に対する思いやりがあるし、優しさがある」
「ありがとうございます。刑事としては誉められているのか、貶されているのか判りませんが、個人的には大変光栄に思っています」
「ところで、般若の新しい面が出た。ということは怒りの死に顔をした死体が発見されたということですね?」
「阪本さん。失礼ですがお幾つですか?」
「45歳です。もうすぐ46になりますが・・・」
「それじゃ、僕よりも12歳年下ですね」
「刑事さんは57歳ですか。若く見えますね。わたしより年下だと思っていました。ところで、どうして歳を聞かれるんですか?」
しばらく間を置いて、永井刑事は口を開いた。
「いや、無理な話でしょうが・・・。阪本さん。刑事になってみる気はありませんか?」
隆二は吃驚仰天した。
「マジな話ですか?」
「そうです。今の我々の世界にも、あなたのような人材が必要なんです。会社の辞め方をお聞きして、その潔さに感服しました。刑事という職業には、この潔さが一番大切な要因なんです!」
「まあ、それより・・・・怒りの面はどこで発見されたのですか?」
隆二は話を逸らした。
「花園神社の境内です」
花園神社は新宿歌舞伎町の外れにあり、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)を祀っていて、江戸時代に内藤新宿ができる前からあった、尾張徳川家から崇敬を受けた神社である。
古代の英雄・日本武尊が死に際に、美夜受媛(ミヤズヒメ)に授けた草薙の剣が、尾張一宮である熱田神宮に保存されていることからも、尾張の国で日本武尊が如何に崇拝されてきたかが覗われる。
「その怒りの般若の面を付けた死体は誰ですか?」
刑事から名前を聞いた隆二は、しばらく呆然として黙っていた。