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はじめに 平成元年5月10日。 わたしの母が死んだ日です。 享年80歳でした。 わたしは母が40歳の時の子でしたから、ちょうどわたしを生んだ歳が、母の人生の折り返し点であったわけです。 長い間パーキンソン氏病を患っていて、薬の副作用で鬱症状の時が多かった生前の母が、わたしの顔を見ては、“死ぬのが怖い!”とよく言っておりました。 そんな時、わたしは、“死は怖いものではないよ!寿命を全うしたから死ねるんだよ!だから死はお祝いごとなんだよ!”と言うのでした。 神父の兄が母を看病していたのですが、彼はそんなわたしの言葉に激しく怒り、“験のわるいことを言うな!”と罵るのです。 わたしは、そんな兄の姿をまじまじと見て、“宗教は一体何を教えているんだ!”と呆れるばかりでした。 わたしにとって、死は決して悪いものではなかったからです。 このふたつの出来事がきっかけで、わたしは血の繋がりと、こころの繋がりとはまったく別ものだと確信を持つに至ったのです。 わたしは、大学でコンピュータ関連の学科を専攻していたこともあって、いろいろなシステムを開発したことがあります。 そんなことから、あるソフトがこころの中を大きく占領することになったのです。 そのソフトの名前は、“デス・プログラム” まさしく、“死へ誘う”というプログラムだったのです。 あれから18年が経ちました。 コンピュータソフトの開発に従事する仕事ではなく、文章を書く仕事に就いているわたしが、『今、ここ』にいて、そしていよいよ“デス・プログラム”の開発に着手する時がやって来たのです。 ソフトの名前は“デス・プログラム”ですが、本の名前は“こころの琴線(死への誘い)”と迷いもなく決まりました。 文字の羅列のソフトと、文章の羅列の本の違いはあっても、内容は同じである筈です。 それは何十年も胸に暖めてきた、わたしの「想い」だからです。 平成18年4月23日 新 田 論 |
| 第一部 死の本質 第二部 死の応用 第三部 死の結論 |
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終わりにあたって 人間にとって死とは人生の結論であります。 つまり、終わりがあるわけです。 原因と結果の法則、つまり、因果律に基づけば、始まりがあるから終わりがある。 まさに、誕生があるから死がある。 至極当然のように思われますが、果たしてそうでしょうか。 では、わたしたち人間は、未だ来ぬ未知の出来事である死に何故振りまわされて生きているのでしょうか。 因果律に基づけば、原因、つまり、誕生した時から、結果、つまり、死が決定しているわけですから、死は未知のことではなくて既知のことでなければ理屈に合いません。 すべては必然であるとする因果律に基づく考え方です。 “だから、我々はいつか必ず死ぬことを知っているのだ!”と反論される方が殆どの現代人であります。 しかし、“我々はいつか必ず死ぬ”というのは理屈に合いません。 “いつか”は未知のことで、“必ず”とは既知のことだからです。 “我々は必ず死ぬ”既知のことなら、死ぬ時期も決まっている筈です。 始まりがあるから、終わりがあるという因果律に基づいています。 “我々はいつか死ぬ”未知のことなら、死は確定事(約束事)ではない筈です。 始まりがないから、終わりがないという因果律に基づいています。 しかし、最初と最後に永遠性がある円回帰運動をしているわたしたちの“運動の光と音の宇宙”では、 始まりがあるから、終わりがない。 若しくは、 始まりがないから、終わりがある。 どちらに軍配が上がるのか、その鍵を見つけることが、知性を得た生き物・人間の課題であり続けてきた理由であり、その結論を出す時期が二十一世紀ではないでしょうか。 平成19年2月4日 新 田 論 |