|
第二十一章 賢・愚問題は絵に描いた餅 賢い人の気持ちは愚かな人にはわからないし、愚かな人の気持ちは賢い人にはわからない。 では、わたしたちが賢さを求め、愚かさを忌み嫌うのは何故でしょうか。 “死んだ者は生きたことと死んだことの両方を経験しているから、生きている者の気持ちも死んだ者の気持ちも両方わかっているし、生・死問題という一枚のコインの本質もわかっている。” わたしたちはこの考え方を支持しているから、死を忌み嫌っているだけで、実はそうではないことを前章で述べました。 そうであるなら、“愚かな人は賢さと愚かさの両方を経験しているから、愚かな人の気持ちも賢い人の気持ちも両方わかっているし、賢・愚問題という一枚のコインの本質もわかっている”という考え方が、愚かさを忌み嫌う原因であり、実はそうではないことになります。 結局の処、 賢い人の気持ちは愚かな人にはわからないし、愚かな人の気持ちは賢い人にはわからない。 そうしますと、賢・愚問題という一枚のコインの本質が見事に観えてきます。 生まれた時から死ぬまで、賢い人は賢い人であり続け、愚かな人は愚かな人であり続けた場合に限って、賢い人の気持ちは愚かな人にはわからないし、愚かな人の気持ちは賢い人にはわからないのです。 賢・愚問題という一枚のコインの本質は、賢い人は生まれた時から死ぬまで賢い人であり、愚かな人も生まれた時から死ぬまで愚かな人であるという点にあるのです。 では、賢い人は生まれた時から死ぬまで無条件に賢い人でいられるでしょうか。 自然と一体感で生きている他の生き物には愚かさはありません、つまり、生まれてから死ぬまで賢くあり続ける。 自然と一体感で生きていない人間(若しくは人間社会に織り込まれているペット化した生き物も含む)だけに愚かさがあります、つまり、生まれてから死ぬまで愚かであり続ける。 結局の処、賢さとは自然との一体感であることに他ならず、愚かさとは自然との一体感を失う、つまり、部分観であることに他なりません。 自然とは地球のことであります。 真の親である地球との一体感とは、真の親である地球の想いである重力を感じることです。 真の親である地球との一体感を失って、真の親である地球の想いである重力を感じることが出来なくなった人間だけが、生まれてから死ぬまで愚かであり続け、挙句の果てに、愚かな死に至るのです。 唯物思想の科学偏重の現代社会に生きているわたしたちは、知識(知性)によって賢い人になれると信じています。 この考え方は実は幻想に過ぎないのです。 賢・愚問題という一枚のコインの本質は、真の親である地球の重力を感じることで地球との一体感を持つ他の生き物は生まれた時から死ぬまで賢くあり、真の親である地球の重力を感じることが出来ない部分観を持つ人間だけが生まれた時から死ぬまで愚かであるという点にあるのです。 賢い他の生き物の気持ちは愚かな人間にはわからないし、愚かな人間の気持ちは賢い他の生き物にはわからない。 だから、他の生き物は死を知らないのに、人間だけが死を知り、死を怖れて生きているのです。 生まれてから死ぬまで賢いなら、死の概念はない。 生まれてから死ぬまで愚かだから、死の概念を持つ。 死の概念を持ち、死を怖れて生きているわたしたち人間だけが、生まれてから死ぬまで愚かであり続けるのです。 結局の処、賢・愚問題という一枚のコインは、生・死問題という一枚のコインが変形しただけに過ぎません。 死の問題を解決しない限り、賢・愚問題など絵に描いた餅に過ぎません。 |