第三十二章 下町の温情

マサルと蓑助は、昨日行ったところへ、お返しの印を持って行った。
お布施を頂いた家の名前をきっちりとメモをしておいて、次の朝、家の前に立って、お経を唱え出したら、また奥さんが出てきて昨日と同じものをお椀の中に入れてくれた。その瞬間、蓑助がお礼をしながら、筆で書いたものを、奥さんに渡した。
奥さんは、びっくりした様子で、目の前で、その紙を開けて読んだ。
「あなた様は、どんな信仰を、お持ちか良く分かりませんが、必ずや天の神さまが、いつも見守って下さるように、祈っております。ありがとうございます」声を出して読んだ奥さんが、家の中にいる旦那さんと子供を呼びだした。そしてその紙をみんなに見せた。
「お坊さん。あなた方はどこのお寺の方かね」と聞く旦那さんに、蓑助は、
「わたしたちは、どこの寺の僧侶でもありません。もともとはホームレスだったのですが、あるきっかけで、この近所に住むことになりました。そこで自給自足できるまでの間だけ、みなさんのお情けを頂くためにこうやって托鉢しております」と正直に答えた。
「それじゃ、あの警察寮の跡地に住んでいる方々ですね」と奥さんが言った。
「はい、そうです」とマサルが答えると、
「昨日、お屋敷町の奥さんが、駅前の交番所に苦情に言ってましたよ。ああいった、お高くとまっている人たちほど、人情のかけらもないのよね」
出てきた家の子供は、マサルと同じ年頃だった。
「ほら、お前とほとんど変わらない、こんな坊やが朝早くから、こんなことをしないと生きて行けないのよ。かわいそうに」と奥さんは、とうとう泣きだしてしまった。
「いいえ、僕は好きでやっているんです。つらいことなどぜんぜんありません」マサルが言うと、
「まあ、なんと殊勝なことを言う坊やなの。あんた、この子もちょっとこちらの方のところで修行させたら?」と言いだす始末で、ふたりは何と答えていいのか困った。
「あのう。」とマサルがおそるおそる喋りだした。
「もう少ししたら、あの場所で、ワークと言って、精神修養のような気軽な勉強会を予定しています。お布施のお返しに、こんな紙きれ一枚で十分だとは思っていません。
よろしければ、来て下さいませんか?」
それを聞いた旦那さんが、
「何か、宗派はあるのかい?」と尋ねてきた。
「いいえ。宗教団体ではありません。仏教でもキリスト教でもありません。ただ精神の修養をするだけです」とマサルが答えた。
「気に入ったねえ。こういうの」と旦那さんが言って、
「ねえ、これから毎日いらっしゃい。なあ、おい。」と奥さんの方を向いて言った。
「ええ。そうしなさい。わたしが、近所の人たちを集めて、お布施をまとめてあげるから」と嬉しそうに言った。
蓑助とマサルは泣き出しそうになるぐらい嬉しかった。
「今でも、下町には、暖かいものが残っているんですね」というマサルに蓑助は、鼻をぐずらせながらうなずいた。
五郎と浩介も、同じ下町の商店街に行ってみた。
朝早くから、売り出している、魚や野菜を、大きな声を出す、店の主人が、忙しいのに嫌な顔ひとつせずに、商品の中から、つかみ取りして、お椀の中に入れてくれた。
「ありがとうございます。これはお返しの印として」と五郎が主人に紙きれを渡すと、
「なんでえ。これは」と言いながら開けて読んでみた。
「おめえさん。粋なことをやるじゃねえか。ありがとうよ」と言って主人は鼻をぐすぐす言わしていた。
その日は大収穫だった。それ以上に下町の人たちの温情に触れられたことの方が、大きな収穫だった。