第三十六章 雄叫び

人間関係に日々汲々と生きていると、知らぬ間にいろいろなものが、抑圧されて溜まっている。
特に社会的地位が高かったり、有名であったりすると、その抑圧が一段と強くなる。人間というものは、不思議な生き物で、こういった点では、他の動物と同じように、目先に追われて生きている。ただ動物は、目先ではなく、瞬間しか生きることが出来ないものなのだ。
人間は、先のことを思い悩んだり、過去のことを引きずったりしながら生きている。
それなのに、いざとなれば、目先しか考えない、変わった動物だ。もうひとつの特徴は、腕力がものを言わない世界で生きているのだが、いつも腕力に怯え、憧れてもいる。こうなると、ほとんど精神が分裂してしまう。
ホームレスというのは、人間から、敢えて動物に、自分で引きずり下ろすことなのだ。
完全に敗北者であることは確かだ。ホームレスに主張も、言い分も与えられるべくもない。
昔なら、厭世観を持つと、経済的余裕があれば、出家する。
それがなければ、ルンペンか乞食だ。
こんな後ろめたさを常に引きずっているのがホームレスだ。
ところが、ここのホームレスは、みんなの出自も分かったせいもあるが、ホームレスらしくない。
そして、近所からたくさんの人たちが、毎日ワークにやってくる。
自然、気分は良くなるものだ。
ご老体には、それが気に入らないらしい。
「自分たちは、所詮世間からの落ちこぼれなんだ。ここのところを忘れてはいかん」
五郎が呼応して言った。
「本当に、人間って動物は懲りないもんですね。わたしだって、あれだけ世捨て人になったつもりだったのに、こんな具合になると、以前と同じような、嫌なものが持ち上げてくるような気がします」
「どうしてだか、解るかね?」とご老体に聞かれた五郎は一瞬、考えたが答えが出てこなかった。
「それは、お前さんなら66年間、その肉体を自分だと思って生き続けてきた習い性から来るんだ。それをたかだか数ヶ月のホームレス生活で簡単に変われるものではない」
「そうでしょうね。確かに、一種のカルチャーショックは有りましたが、喉元過ぎれば熱さ忘れるになってしまっています」と五郎が言うと、
「その通りだ、わしの言いたかったことは。人間というものは、みんな、喉元過ぎれば熱さを忘れてしまっている。今ここにいる連中も熱さを忘れてしまっているんだ」
「一番熱さを感じる喉元は、どんな心境の時なのでしょうか?」と五郎は聞いた。
「お前さん、はじめてのあさりの時を憶えているかい?」
「はい、あれは忘れることは出来ません。それまで考えてきたホームレスのイメージを完全に覆してくれました」と答える五郎に、
「そのとき、ホームレスになって良かったと思ったかい?」とご老体に聞かれた。
「正直言って、後悔しました。その時、家のことを思い出してしまいました」
「そうだろう。その時が喉元で一番熱さを感じている時なんだ。一生忘れてはいけない瞬間なんだ。その頭が大混乱を起こしている自分を、冷静に見ることが出来るまで決して忘れてはいけないんだ」
「何か言われていることが解るような気がします」と五郎は頷いた。
「苦しんで、苦しんで、どうしようもない状態まで追いこまれる。四面楚歌の状態に追いこまれて、普通なら自己を見失いそうになる。そこで本当の自己が現れる。必ず現れる、誰にも。それに気づく冷静さを保てる精神力がそこであるかが勝負の分かれ目だ。
普通の人間は、その極限状態にまで持っていくことさえ出来ない。
しょっちゅう、喉元の熱さを経験しているのだが、すぐに忘れてしまっているから、精神力の勝負の場にさえ遭遇出来ない。
喉元の熱さを感じたとき、その熱さを充分味わうことだ。しかしこれが難しいんだ」
熱弁を振るっているご老体の顔が紅潮してきた。
「わたしにとって、最初にごみ箱をあさって、むかつきを感じた、あのときが喉元の熱さだったんです」
と思い出す五郎に、ご老体は言った。
「常に、喉元の熱さを感じている状態に、自分を置いておくことだ」
そして急に
「うおー!」と大声で叫んだ。
みんなが、ご老体の雄叫びにびっくりした。