第五十一章 大企業という化け物屋敷

五郎の前に、背広姿のサラリーマンとすぐ分かる五十代後半の男が立っていた。
「あのう、山本さんでしょうか」と恐る恐る聞いてきた。
「ああ、そうだが、あんたは?」と聞き返すと、
「わたしは、砂塔社長の秘書をしております岩白と申します。砂塔社長が是非、あなたに相談したいことがあるので、お迎えに行くようにと、仰せつかって参りました」
「わたしに相談したいことがあるって?それで何処へ連れて行くつもりだ?」と五郎がつっけんどんに言うと、ますますびくびくしながら、
「我が社の社長室に、お連れするようにとのことです」と岩白は言った。
「わたしみたいな人間を、大企業の社長室なんかへ連れていくと、返って砂塔さんの評判を落とすことになるよ。それより話しがあるなら、こちらに来ればいいじゃないか」と五郎が言ったとき、ご老体が出てきて、口を挟んだ。
「行ってやんなよ、紳士さん。砂塔は腹を据えているから、俺たちのような汚い身なりのホームレスでも、社長室に来てもらおうと思っているんだ。それだけでも一枚皮が剥がれたんだよ、奴さん。普通の大会社の社長なら、自分の評価をみすみす落とすようなことは、絶対しないさ」
「実は、わたしも社長にそう言ったんです。失礼ですが、前は大手商社の役員さんをされておられたと聞きましたが、今はホームレスの身の人を、会社に通すことだけは絶対にやめて下さいと。でも社長はちょっと人間が変わったようで、社長命令だ、と言われました。こんなことは初めての経験です」と、砂塔の変貌ぶりに戸惑っている様子だった。
「岩白さんとか言ったね。お前さんたちがいる大会社というのは、猿山社会よりも劣るよ。責任と権限とは表裏一体だという原理原則が通用しない社会だ。こんな社会は、いかなる生物の社会でもない。だから間違いなく、原理原則の道からはずれたものは破滅する運命にある。砂塔は、そこのところが分かったんだと思う。会社であったことの責任は、社長が知っていようが、なかろうが、すべて社長の責任だ。それなら社長の命令には絶対服従が当たり前ではないか」とご老体が言った。
「でも、それでは独裁者になって、全従業員の支持を得られません」と岩白は反発した。
「まったく分かっていないな、この御仁は。権限のない従業員なんて、一体何の責任があるのかね。彼らは、本質的に無責任なんだ。だからいつも、責任を持ってくれる自分のボスは誰かを探し求めているんだ。従業員の支持なんて屁のつっぱりにもならん。それより、ボス猿は誰であるかをはっきりさせることが彼らを動かす最大のパワーなんだ。お前さんら、一度、高崎山の猿社会を勉強しに行ったらどうかね。
新しくなったボス猿は、必ず前のボス猿の子供を根こそぎ噛み殺す。そして、殺された子猿の母猿は、新しいボス猿と情を交わして子を作ろうと必死に媚を売る。これが生物社会の原則だ」この話しをされて岩白は黙ってしまった。
「あんたとこの会社は、砂塔さんと、山梨会長とかいうのとが、いくら綺麗事を並べても結局、権力闘争しているんだよ。これは決着をつけるしか方法はないんだ。ボス不在の組織が長く続けば続くほど、他の組織の餌食になって滅ぼされるのは必至だよ。砂塔さんは、しばらく会社を離れて、自然の摂理で動いている本物の社会を知ったんだと思うね。わたしなんかに相談するようなことは無いと思うがね」と五郎は言った。
もう岩白は、何も言えずにただ聞いているだけだった。
「ところで、お前さんは、どっちがボスだと思っているのかね」とご老体に質問されて、岩白は答えられなかった。
「ほら、社長秘書の役員でさえ、この始末だ」と吐き捨てるようにご老体は言った。
「砂塔社長と山梨会長の二人三脚で経営に当たると言って、スタートしたんです」
岩白のこの言葉にあきれかえった、ご老体は
「二人三脚っていうのは、必ずこけるということだ。運動会を思い出せば分かるだろう」と言って、寝床に戻ってしまった。
「岩白さんとか言ったね。あんただって、どっちがボスか見ているんだろう。早く決着をつけて欲しいんだろう。それでないと、どこまでも二股膏薬を続けなければならないとなると、人間の良心として、しんどくなるだろう。あんただって、家庭に帰れば、立派な父親なんだろう」
五郎は、ご老体のようにはきつく言わずに、我慢強く話そうとした。
「ひとつお聞きしていいですか」と岩白は、五郎に伺った。頷いた五郎に、
「砂塔社長は、社長就任時の挨拶で、全従業員に向かって、面従腹背は許さないと言われました。わたしの感想ですが、それ以来、面従腹背がもっとひどくなったように思いますが、一体この原因は何なのでしょうか」岩白は、五郎に少しずつ胸襟を開いて来た。
「それは、人間っていう動物は、これをやっちゃあいかん、と言われるとますますやってしまう性癖があるんだ。やっちゃあいかん、と言った砂塔さん自身が自省の念で言ったんだ。自省すべきことを、他人にまず要求した砂塔さんのミスだろうな。まず黙って自分が更正してからでないと、他人に要求してはいかん」
「それでは、社長自身、面従腹背をしてこられたのですか」と言う岩白に、五郎も我慢の緒が切れそうになった。
大会社というところは、化け物の館だ。こんな簡単な事も分からなくなっている人間の集団なのだ。だからあの元旦事件の時に、みんなブタや狐に見えたのだ。
「あんた、今まで生きてきて嘘を一回もついたことはないのかね」と吐き捨てるように言った五郎に、
「いいえ、そんなことは不可能です」岩白は答えた。
「嘘をつくということは、まさに面従腹背だろう。みんなに嘘をつくことは許さんと言っているのだ。まさにお笑い草だ。子供でも苦笑するだろうよ。分かった。砂塔さんの所へ行こう」五郎は腹を決めた。