第五十六章 新しい旅立ち

ご老体と葬儀屋が、警察に赴いて、事の仔細を全部説明した。
結果、中村だけが、逮捕された。
その中村も、五郎が恭子の父に頼んで、不起訴処分で収まった。
上原の道場に中村は、五郎をたずねて来た。
「山本さん、このたびは、こんなわたしに惻隠の情をかけて頂いたこと本当にありがとうございました」
中村は恐縮した面持ちで言った。
「まあ、そんな事より、お前さんみたいな人間はホームレスになるのは、到底無理だ。
何とか、家族のもとに帰ることだな」
「そうですね。わたしもそう思います。常に自分を支えてくれるついたてがないと生きてゆけないんです」としみじみ言う中村に、
「そのお前さんにとって大事なついたてが、みんなお前さんから逃げていったのさ、何故だか分かるかい」とご老体は聞いてみた。
「いいえ、わたしなりに、会社でも、家庭でも必死になって頑張ってきたつもりです。それなのに」と言う中村に、
「誰だって、一所懸命生きているんだ。問題は、相手の心が理解できているかどうかだ。
お前さんは、会社の上司、同僚、部下それぞれの気持ちを理解できていたと思うかね。
家族の気持ちを理解していたと思うかね。お前さんは自分でそう思っているだけで、実際のところ相手の気持ちなんか、理解するどころか、理解しようともしなかったのだ。それが相手には、感じ取れるんだ。だから、お前さんを捨てたのではなくて、お前さんから、会社も家族も逃げていったのさ」
ご老体の話しを聞いていた五郎も、含蓄のある話しだと感心した。
「この、他人(ひと)の心を理解できる力を、仏教では観自在力というのだ。科学的に言うなら、繊細さと、包容力のある、つまり性能の良いアンテナのことだ。アンテナも個人だけのものなら、受信するだけだろう。だけど送受信できるアンテナは大きなものになる。
人間みんな、このアンテナを持っていて、本質的には巨大なアンテナと送受信できる力を持っているのだが、自ら、その能力を捨てて、受信専用の個人アンテナになっている。
もったいないことだ。お前さんなど、テレビの上に、ちょこんと置いてある、簡易アンテナみたいなもので、受信する能力も極めて低い。先ずは、共同アンテナで受信するようになることだな」と、訳の分からない話しをご老体はした。
「その、共同アンテナで受信するということは、具体的にいうと、どうすることなんでしょうか」
中村はさっぱり、理解しかねている様子だった。
「まあ、これ以上の話しになると、お前さん、もっと分からなくなるから、この辺にして置こう」とご老体から、会話を断った。
中村はその後、どこかに去って行った。
「ご老体。先程のアンテナの話しですが、わたしにも理解できない点がありました。簡易アンテナと共同アンテナの違いの喩は分かりますが、どうしたら共同アンテナに切り変えられるか、わかりません」
五郎は、ご老体に訊ねてみた。
「紳士さんが、まだそんなことも分からないのかね。驚いたね。どうやらもっと厳しい修行が必要なようだな」
あきれたよう顔をして、ご老体は笑った。
「二人で、修行の旅に出てみる気はあるかね」と聞かれた五郎は、すぐに頷いた。
「よし、それでは、明日から出発だ。いいね」
念を押された五郎は、一抹の不安は感じたが、期待と喜びの気持ちでいっぱいだった。
話しを聞いていた、道場の連中から、浩介が切りだした。
「旅といっても、どこへ行かれるのですか」
「中国、インド、イギリス、アメリカといったところかな」と平然と言うご老体に、みんなびっくりした。
「どうやって行かれるのですか。莫大なお金が要りますが、そのお金をどうするのですか」と誰からなしに声が上がってきた。
そこへ、さっきから姿が見えなくなっていた蓑助が、
「ここにわたしの貯金通帳があります。これを使って下さい」と急に言い出した。
何と、その貯金通帳を見た、恭子とマサルは驚きの声は発した。
「2億円の定期預金が入っていますよ」と叫ぶようにマサル言った。
「田舎の田んぼや畑を売ったお金ですから、心配ありません」と蓑助は言った。
浩介も、蓑助だけに出させる訳にはいかないと、同じように貯金通帳を差し出した。
その通帳には、5千万円の預金がされていた。
ホームレスだといっても、みんな、いざとなれば、一般の人間よりも金持ちだ。
「わたしは、正直言って一銭もありません。なけなしの五百円玉一個もなくなってしまいました」と五郎が言うと、
「お金のことは、みんな心配してくれなくてもいい。わしも、そこそこ持っておるから、紳士さん一人ぐらい、どうでもなるさ」と笑って話すご老体に、
この人は、本当に正受老人の生まれ替わりかもしれないと思える気分になる五郎だった。