第七十三章 若者の光と陰

21世紀に入って、確かに若者にとっては厳しい世の中になった。それまでが、あまりにも大事にされ過ぎたから、余計その反動が大きい。今や、若者は世間のお荷物になっているだけだ。スーツにネクタイをつけたフレッシュ社員が闊歩した光景が日本の都会から消えた。逆に老人が粋な派手目のスーツで街の中を若々しく歩く光景が目立った。
20世紀の終わりの頃、日本は、バブル経済破裂の傷から抜けられず、最悪の長い不景気に見舞われ、その中での高齢者の増加は、将来の若者に与える負担が二人に一人から、一人が一人を面倒みなければならない時代が到来する、と言われていた。
そういった経済学者や、評論家の言葉が先走りして、少子化問題が加味され、若者礼賛・厄介老人が世の中を席巻していた。
それが、若者を甘やかし、老人を発奮させる結果になるとは、誰が予想出来たであろうか。
しかし、それが確実に現実化しつつあるのだ。未来を予測するのはいかに難しいか、いや不可能と言っていいだろう。
逆に歴史の鉄則が教えるのは、その当時の大方の人間が、こうなるだろうと思っていたことと逆のことが起こることである。しかし歴史家は、そのことを決して世に伝えない。すれば自己否定になるからだ。
だから、今までの歴史もそうであったように、これから起こる未来の歴史も専門家や評論家の言うことの逆が実際に起こるのだ。
しかし、過去の歴史を評論する現在の歴史家は、過去の当時に生きて真実を見てきたわけではないし、未来を予想する者は、その時には、既にこの世にはいない。
責任を取る必要がないところで、ああだ、こうだと評論するだけだ。そう言った職業が受け入れられるのは、新興宗教の教祖とまったく同じで無責任極まりない。
歴史家ほどいい加減な職業はない。自分の個人的趣味を商売にしているだけで、そういう点においては、芸術家と同じところにある職業である。
しかし、芸術家は、画家であっても、音楽家であっても、作家であっても、個人の主観を表現しているだけであって、それを稀少な価値と認められたとき他人から評価される。ところが歴史家を筆頭に評論家というのは、客観的事実を伝えることがその使命である。しかしそれを見たわけでも、経験したわけでもないのに、どうして客観的事実を伝えることが出来るのか、そのようなことは不可能である。
文章を書くということは、今ここに起きていることを今書くか、それ以外はすべてフィクションであるのが道理だ。
高齢化社会到来と言って問題視していたのに、目の前に現れているのは、若者の深刻な問題であり、確かに高齢者は増加したが、これは統計的予想であって、その高齢者が問題の対象になるとは言っていない。増加した高齢者が、屈折した若者を支えているのだ。こんなことを誰が予想したであろうか。
「早く、若者を指導できる道場をつくっていてよかったなあ」とご老体が、五郎に言ったとき、五郎は72才になっていた。ご老体は75才だ。
五郎が家出してホームレスになってからこの7年の間に、世の中は激変した。
今や、老人は社会の大黒柱の世代になり、若者は社会の厄介者になってしまった。
「10年足らずの間に、逆転現象が起きてしまいましたね」と五郎が、ため息をつきながら言うと、
「結局、問題を真面目に捉え、何とかしようと思っていたのが、我々高齢者であったからだ。そのとき若者は我が事として真剣に捉えていなかった。その差が出たのさ。老人や若者の問題ではなく、個人個人の認識の問題だと思うよ。マサルや恭子さんは、今でも若者の光をきらきら輝かしているじゃないか。ただ陰の部分を露呈した若者がほとんどであるのが今の社会ではないかと思う。かわいそうだが、自業自得だ」
ご老体は呟きながら
「まだ、これから最後の仕上げが、我々老人にはある」と五郎に強い口調で言った