第九章 元旦の出来事

五郎はトーホー商事の株主総会で退任してから初めての正月を迎えた。
元旦に会社で役員以上が、新年の集まりをするのが恒例になっており、そのとき役員OBも社友として出席する。
五郎は、現役のとき、この元旦の集まりが楽しみのひとつだった。理由は別段ないのだが、平の取締役なのに、他の常務以上の役員よりも上位にいる気分だったからだろう。
たしかに、他の常務以上の役員たちも、五郎には圧倒されている気持ちでいたようで自分の方が偉いという態度はまったくなく、かえって五郎の方が上のような関係だった。
やはり実績が物を言っていたのだろう。他の役員連中はまったくといっていいほど、目を見張るような実績もなしに、ただトップの引きあげだけで偉くなったことを、本人自身充分に知っていたからだ。
しかし、今回の集まりに五郎は期待するものは感じなかった。むしろ行っても失望するだけだと思っていた。
そういって、欠席する理由もないので、元旦の朝10時に会社に行ってみた。
100人以上の人間が大ホールに集まって、談笑していた。
そのホールの入り口を入ろうとしたとき、中にいる100人の人間が、何か訳の分からない動物に見えた。
一瞬、立ち止まった。
そして、もう一度眺めてみた。
そうすると、みんなの目が閉じている。閉じているのだが何かがやがや喋っている。
何人かは、自分を見ている。しかし目は閉じている。
五郎は2・3歩後ずさりした。
そうすると、その目を閉じた2匹の動物が目を閉じたまま、こちらに向かって歩いてきた。
そして何か、自分に話しかけてきたが、何を言っているのか分からない。
体が硬直して、ぞっと寒気がしてきた。
そして、気がついたら、会社の外に飛び出していた。
「一体、どうしたんだろう」。
五郎は、自分が変になったのではと思った。
そして、駅まで行くと、そこにいる人たちは普段と変らない。
やっと正気にもどったと思った。
電車に乗らずに、駅からタクシーに乗って明治神宮までと言った。
何気なく、そう言ってしまったのだ。
とにかく、爽やかさが欲しかったように思ったからだろう。
いつもは、閑静な神社が、今日は人の山だった。
タクシーから降りようとして、その人の山を見た途端、また同じように、そこにいる人間が、みんな目をつぶっている。
タクシーに飛び乗って、ドアーを閉めた。
タクシーの運転手は、訳が分からない様子で、
「お客さん、どこか具合でも悪いんじゃないですか?」と尋ねてきたが、五郎は返事もせず、車の中にぼーと座ったままでいた。
頭を振ってみたが別に異常は感じられない。
「運転手さん、悪いがもう一度大手町まで戻ってよ」とやっと口を開いた。
運転手は、何も言わずに大手町に向かった。
とにかく、冷静に考える時間が欲しかった。
大手町まで行くのに、30分ぐらいはかかる。
必死に五郎は、正気に戻ろうといろいろ考えるのだが、原因が分からない。
何か夢を見ている気分なのだ。
この元旦の出来事が、五郎の66年の人生を、どんでん返しする原因になろうとは、そのとき分かるべきもなかった。