一期一会  十二の日

日々の暮らし方について、お話しましょう。
「暮らす」という言葉は、とても好い響きですね。
非常に古い言葉で、平安時代には既に使われていて、「暗くする」が源義で、日の暮れるまで過ごす意味から、生活する、生きる、ずっと一つのことを一日中続けるといった意味にも使われるようになったようです。
生きることに対して、自分の意志が表れている。
ただ何となく生きているのを、暮らしているとは言わないのであります。
わたしがまだ子供の頃に、正確な名前は忘れましたが、「暮らしの泉」とか言った雑誌があった記憶があります。
その頃の人たちは、「暮らす」という言葉の意味合いを十分理解していたのではないでしょうか。
恋人同士が、「あなたと一緒に暮らしたい」という会話は絵になります。
「あなたと一緒に生活したい」、「あなたと一緒に住みたい」では、二人の心の絞り出すような想いが感じられない。
「苦労してもいいから、一緒に生きて行きたい」という清々しい覚悟の程が感じられます。
「五の日」でお話しましたように、本当に生きる、真実に生きるためには、清々しい覚悟が要る。
清々しい覚悟を以って生きることが、日々を暮らすということだと思うのです。
あなたの、日々の暮らしは、如何なものでしょうか。
今日一日、こんな楽しみがある。あんな楽しみもある。こんな嫌なことをしなければならないこともある。だけど、その後には、楽しみがいっぱいある。
こうして生きるのが、日々の暮らしであり、幸せの原点ではないかと思うのです。
楽しみの間に、嫌なことをしなければならないこともある。これが幸せをより感じさせてくれるスパイスの役目を果たしてくれます。
一日中、楽しいことずくめでは、嫌になってしまい、返って苦しい嫌なことを求めるようになるのが人間であります。
それなら、最初から嫌なことを、楽しいことの間にプログラムしておく。
これが、日々の暮らし方の極意であります。
突然、思いもよらない嫌なことがやって来ると、計り知れない程大きな衝撃を受けます。
プログラムされた嫌なことなら、心の構えができていますから、衝撃もほとんどありません。
返って、楽しいことをより深く感じるための香辛料になってくれます。
わたしが、常に申していますように、生きる糧を得るためにやるのではなく、自己の精神の向上のために日々継続するものを持ち、それを継続して生きていることこそ、日々を暮らしていることに他ならないのであります。
生きる糧を得るためにやっていることの延長線上には、暮らしの泉は湧いて来ません。
この世的成功を求め、獲得された方は、生きる糧の延長線上での生活に追われています。いや自分から追っているのです。
そういった生き方を、ずっと続けることは不可能なのです。
いつの日か、暮らさなければならない時が必ずやって来る。その時、暮らすとは一体どういうことをすることだと他人に訊いても、自分で見出すしかないのですから、誰も教えてくれません。
ゴルフをしても老後の健康管理にはなっても、暮らしの極意を教えてはくれません。
それは自然に湧いて来るものであります。
あなたは、暮らしの泉を発見し、掘りだす作業を日々されているでしょうか。