一期一会  十六の日

今日は、ひとつ大上段に構えて、「悟り」ということについて、お話してみたいと思います。
「悟り」の悟という文字は、立心編に吾と書きます。
立心編はその字の通り、心に関する文字の編であります。
吾はまさしく自己であります。
自己の心と書いて「悟る」と意味する表意文字であるわけです。
一方、英語では「悟る」ことをEnlightenmentと言います。
光(light)を照らすこと、と言ったらいいでしょうか。
常々、持論として申してきましたが、日本語という言葉は、外来語の漢字と、漢字を崩したひらかな・カタカナの構成でできたもので、本来の漢字の持つ表意性のみならず、表音的にも使うように工夫したものでありますから、その言葉の語源を希薄なものにしてしまう欠点があります。
古事記に書かれている文字はすべて漢字ですが、表意文字のみならず、表音文字として漢字が使われている。
稗田阿礼という巫女が喋ったことを太安万侶が音を拾って漢字にしたのですから当然表音文字になっていて、漢字そのものには全く意味がないものがあるわけです。
つまり音を漢字に当てている、いわゆる当て字であります。
それから約1世紀後に万葉集が編纂されるのですが、これも同じ手法で書かれていて、そこから万葉仮名という当て字の漢字が生まれるわけです。
音だけを使っているのですから、意味はまったく無いわけです。
従って、語源など、どこかへ消えてしまっている。
ところが、英語の場合の語源はラテン語やギリシャ語がほとんどですから、必ず、語源がはっきりしているのです。
言葉の教育、すなわち国語の勉強において、日本語の国語教育は非常に厄介な代物であるのです。
英語を使用している人たちが極めて論理的、合理的なのは、言葉のルーツに関係があると、わたしは考えています。
日本人が情緒的、感情的なのも、やはり言葉の語源がはっきりしない点が影響していると考えられます。
わたしの考え方が、非日本的だとよく言われますが、それは外国に住んでいることが多く、必然英語を使うことが多くなると、英語的発想になるからで、わたし自身の体質が、外人的、非日本人的ではないのです。
そこで「悟り」について、話を戻しますが、日本語的には、自分の心の問題と考えていいでしょう。
英語的には、自分の心に光を照らす、照らして頂く、といった感じであります。
結局、自分の心の状態で、悟りの状態になるといっていいのではないでしょうか。
ここからが本題なのですが、悟りとは、自己を滅する、自分という意識を滅することである。
もっと卑近な表現を使えば、自己犠牲と言っていいでしょう。
どれだけ、自己を犠牲にして他者の為に尽くすことが出来るか。
愛はまさしく自己犠牲であります。
慈悲も自己犠牲であります。
瞑想も、自己を滅するわけですから自己犠牲であります。
祈りも、自分の為に祈るのは祈りの本質ではありません。他者の為に祈るのが祈りの本質であります。
他者の為に尽くす。
これには限りがありません。
従って、わたしは、生身の人間が悟ることは不可能だと思っています。
限りなく悟りの状態に近づくことは出来るが、悟りの境地に達することは出来ないと思っています。
釈迦もイエスも・・・みんな我々と同じように俗世のことで悶々としていたはずであります。
ただ程度の差だけで、それは自己犠牲がどれだけ出来たかという点において、際立った存在であったのだと思います。
それでは、我々は、日々の生活の中でどれだけ自己犠牲を払っているでしょうか。
現代社会、特に超唯物的になり下がった現代日本人には、自己犠牲という言葉さえ通じない世の中になってしまったようです。
自己を犠牲にすることは、損なこと、愚かなこと、阿呆なこと、という考えが常識の世の中であるのです。
自分自身が、どれだけ周りの人たちの自己犠牲によって生きているかが分からないということは、実に悲しい、哀れな人間であります。
自分が他者の為に自己犠牲を払わなければ、相手も自分の為に自己犠牲を払ってくれません。
そういう世界を餓鬼、修羅の世界と言うのです。
日々、自己犠牲を念頭に置いて生きる為に、わたしは「一日一善」を心掛けています。
悟りの程度とは、結局自己犠牲をどれだけ払ったかであるような気が最近してなりません。