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一期一会 二十八の日 現代のような人間社会の中で生きている、わたしたちが一番希っていることは何でしょうか。 生きるということは、危険の中にいることに外ならないと、わたしは常々申していますが、危険の中にいるからこそ、安全を欲しがるのが人情でもあります。 この事実認識と人間の情念との微妙なバランスが大事なことだと思うのです。 危険であるからといって、危険の真っ只中に四六時中いるということも無理な話であります。 だからと言って、常に安全な状態を期待するというのは不可能なことです。 わたしが、そこで唱導したいのは、安心な心の状態に常に自分の精神状態をおいて置くことが一番の要諦だと考えています。 『安心な心の状態』というのもおかしな表現ですが、敢えて申しましたのは、安心という意味と安全という意味の違いをきっちりと−失礼いたしました。『きっちりと』という言葉は、今の日本の政治家の独占台詞であったことを忘れていました。きっちりと何もしていないから、『きっちりと』を連発しておるのですが−はっきりと認識して頂く為に敢えて言ったのです。 安心というのは、その字の通り、心の状態であり、安という字はウ冠に女と書きます。 ここでいう女というのは母親のことであり、母親に抱かれ、ゆったりと眠っている赤子のような状態を意味します。 安心とは、正にそういう心の状態を言うのであり、現に赤子の時はそうであったように、この状態は可能であります。 しかし安全というのは、無理な話であります。 全つまりすべてが、安の状態だと言うわけです。 世の中のことは、すべて変化している無常の世界であるのですから、常に安全を求めることなど不可能なことであります。 従って、安心立命という、禅の言葉がありますように、かつて母親の胎内で十月十日間守られて生きていた胎児のような心に少しでも近づくことです。 では、胎児はどのような心持ちであったのかを思い出してみる必要があります。 残念ながら、わたしたちの記憶はせいぜい3才頃までしか憶えておりません。 そして、その記憶と記憶の無い狭間の微かな感覚が何であるかと申しますと、母親の乳首を咥えている赤子の自分であります。 泣きわめいている赤子を、なだめる一番の方法は、母親の乳首を咥えさせることであります。 それは臍の緒で繋がっていた母親との命綱であり、絆でもあるのです。 安心な状態というのは、信頼できるものとしっかりと−きっちりとではありません−命綱という絆で繋ぎ合っている時が、安心立命の時であるのです。 この世に独りで生きている自己でありますが、たとえ他者が単なる映像であっても、その間に絆という命綱で繋がっておれば、人間は安心であるのです。 その絆という糸で、人から人へと鎖のように繋がっている世界を平和な世界と言うのではないでしょうか。 |