一期一会  特別の日

心というものは、どうしてこんなにころころ変わるのでしょうか。
心というもの自体、心理学者ははっきりとした定義を持っているのでしょうが、我々一般には漠然としたものでしかありません。
他にも、想い・気持ちなどがあるのですが、心との区分けがはっきりしません。
何か胸の辺りや、頭の辺りで、時には肉体と連動し、時には肉体とは独立して、うるさい囁き−要は言葉ですが−が四六時中聞こえてくるものがあることは確かです。
それを心と言ったり、想いと言ったり、気持ちと言ったりしておるのですが、これは一体何なのでしょうか。
肉体なら見ることが出来ます。
背の低い、太った、頭の毛の薄い自分の姿がはっきり見えるわけです。
しかし、今こうやって文章を書いておる手に指示しているのは、一体何者なのでしょうか。
「何を言っておるか。お前自身ではないか」
と言われそうですが、「それでは、わたし自身をちょっとここに見せて欲しい」と言われたら、まるで禅問答になってしまいます。
最近の研究では、心や想いというものも、肉体そのもと同じ波動エネルギーであると言われていますが、そんなものを目にしたことのある人はいらっしゃるでしょうか。
目で見えるもので、はっきり見せてくれれば、みなさんも納得されるはずです。
そこで、心というものを目で見ることができる大胆な試みをしてみたいと思います。
まず姿見のできる鏡を用意してください。
あなたの全身が映る鏡です。
あなたの全身が鏡に映っていますね。
それはあなたの映像であること、そして鏡の前に立っているあなたが実像です。
次に、あなたの目で見える実像はどこまででしょうか。
足の先から順番に上に上がっていくと、突然あなたの実像が見えなくなるのは、首の辺りではないでしょうか。
今度は、あなたの背後はどこまで見えるでしょうか。
足の裏から、お尻の裏、ウェストの裏辺りまででしょうか。
あなたの実像は全部見えないことがわかりました。
首から上、ウェストの後ろから上の背中、そして頭までが、実像の見えない辺りであります。
次に鏡を見ますと、首から上の前面、つまり顔を見ることができます。
背中を鏡に映せば、背中はほとんど見えますが、頭のうしろは全部見えません。
つまり、実像でも見えない、鏡に映っている映像も見えないのはどこかと申しますと、頭のうしろの一部分と背中の一部分だけは、鏡でも見えない部分です。
わたしたちは自分の肉体の内部のみならず外部ですら、見えない部分があるということです。
すなわち、見えている部分よりも見えていない部分の方が遥かに多いという事実をよく知らなければなりません。
人間の心、想い、気持ちといった形になっていないものは、三つの層に分かれています。
頭脳(知性)による層。
ハート(感性・感情)による層。
実存(敢えて肉体部分で言うならば臍下丹田から足の裏にある太陽叢神経)による層。
普段、わたしたちが心、想い、気持ちと考えている−正に頭脳で考えている−のは頭脳とハートの層が機能した結果であり、先ほど説明しました、自分でも見えない頭のうしろの一部分と背中の一部分の処に実は、頭脳の層とハートの層があるのです。
だから心、想い、気持ちといったものが目に見えないのです。
実存による層である臍下丹田・太陽叢神経は鏡という映像でなく実体のものを見ることができます。
臍の下や足の裏を見ることはできます。
心、想い、気持ちに強い変化が起きた時、臍の下から足の裏までを一本の神経が通っていて、そこに変化が生じますので、神経は体内にありますが、その神経の中の流れに変化が生じると、外部から見ても、ピクピクと肌の面が動きます。
あたかも、血管がピクピクと動いているのを見ることができるように見えます。
これこそ、心、想い、気持ちのうごめきが、モールス信号のようになって発しておるのです。
そのコードを解読出来れば、心、想い、気持ちが形ある目に見えるものとして顕れていることがわかります。
そのコードは、それぞれの人間に固有のもので、パスワードが判れば解読可能になります。
ポイントは、あなたのパスワードを知ることです。
パスワードは産まれた時、臍の緒を切られることで忘れてしまいます。
昔の親は、産まれた子供の臍の緒を大事に一生保管してくれていました。
わたしの臍の緒は今も厳然と残っています。
臍の緒を見れば、パスワードが示されているのです。
今日、帰られたら、もしご両親が健在でおられるなら、臍の緒があるかどうか訊ねられることをお薦めします。