一期一会  未(ひつじ)十一の日

夜もすがら 仏の道を たづぬれば
わが心にぞ たづねいりける

わたしが今、七転八倒しておる不眠症も、突き詰めてみれば−実は突き詰めるという心の姿勢が悪循環を生んでおるのですが−己の心に打ち克つことでしか解決の道はないわけでして、いくら医者や薬に頼っても、最後は自分で決着をつけなければならないのです。
一休さんも、そんな経験があったようで、その時の詩(うた)がここに紹介したものであります。
お坊さんは、出家の身ですから、既に世間という外側の世界を捨てて、内側の世界を探求しているわけです。
外側の世界を探求している間は、まだその欲望の心は、きめの粗いもので、たとえば、お金持ちになりたい、世間的名誉を欲しい、奇麗な女性を抱きたい、おいしい物を食べたい、といったものですが、これが内側の世界を探求すると、その探求する心は、非常にきめの細かいものになっておるのです。即ち悟りを得たいと思うのであります。
結局の処、悟りを得たいというのは−英語ではEnlightenmentと申しまして、どちらかと言うと、光明を得るといった感覚に近いのですが−これも、実に微妙な欲望であるのです。
欲望のない状態が悟りの状態であるのですが、欲望の対象は自己に属するものではないのに、欲望を持つと錯覚している自己がいるから湧く想いであり、自己がいなければ、欲望はただ自分の外側を漂っている雲であることがわかるはずです。
欲望を持つ自己など、実はいないわけでして、いるのは雲の背景に広がる真っ青な空が、自己の実態であることを知るのが悟りであるのです。
従って、外側の探求を止めて、内側の探求をしますと、先ずぶち当たるのが、雲と同化しておる自己の心であるのです。
この心は、実に厄介な代物でありまして、いつも、"自分が、自分が、・・・"と思っておるのです。
しかし、この自分と正面から対決して、雲であるという実態を知らない限り、雲の後ろに控えている無辺広大な空に出会うことは出来ないのであります。
世間的な成功に執着している間は、まだ心の旅に出る準備ができていないので、問題は無いのですが、ひとたび、心の旅に出発しますと、必ず出会う宿命にあるのが、自己の心との対決であり、それを克服しない限り、遠い心の旅は続けられないのであります。