一期一会  未(ひつじ)十二の日

心とは いかなるものを いふやらん
すみ絵にかきし 松風の音

禅の世界では、無念無想、一切の思考を断つことを目指して修行しているのですが、結局は無心の境地が最終目標であるわけです。
心のない状態を、無心と言いますが、一体どういう状態かと申しますと、人間は、普通考えることを止めることは、自分の意志である程度可能ではないでしょうか。
しかし、思うこと、即ち、勝手に湧き出て来る想いを制御することは不可能であります。
この考えることと、思うことを合わせて思考というのですが、この思考のない状態を無心と言うのであります。
従って、制御不可能な、勝手に湧き出て来る想いを、湧き出て来ないようにさせることが本当に可能なのでしょうか。
そこで一休さんは歌われているのです。
それは墨絵にかいた松の間を通り抜けていく風のようなものだ。
そんなものは墨絵にはかきようが無いし、また見ることも出来ません。
絵は絵描きにとって描くものです。
絵は鑑賞者にとって見るものです。
ところが描くことも出来ず、見ることも出来ない松の木の間を吹き抜ける風をどう描くか、どう見るかの問題になってくるわけです。
絵を描くことをDrawと言います。
絵を描く人をDrawerと言います。
描かれる絵をDrawnと言います。
そうしますと、描く人Drawerも目には見えない風を描くという意思があり、描かれる絵Drawnも、目に見えない風を描かれるという意思があって、はじめて風が描かれるわけで、つまり双方に意思がなくては風を描くことはできません。絵を描くキャンパス即ちここでは半紙か何かに描くのでしょうが、半紙のきめの粗いレベルでは現れてこないが、きめの細かいレベルでは、きっちりと風の絵が描かれているので、現れているのです。
その瞬間(とき)初めて、松風の音が聞こえてくるのです。
DrawerとDrawnとの想いが一体にならなければならない。
その瞬間(とき)、DrawerもDrawnもDrawingそのものに成ってしまっているのです。
絵描きも、キャンパスと一体となって、絵を描いている状態のことをDrawingと言うのです。
絵描きが、巧く奇麗に描いて高く売ってやろうと思っていても、キャンパスはそのようなことを思っていません。
作家は、巧く奇麗に書いてやろうと思っても、原稿用紙自身にとって有名な作家であろうと、無名の作家であろうと、原稿用紙は原稿用紙であります。
原稿用紙にも意思を持たせることが出来るのは、作家の想いであります。
高い値段で売りたい、ベストセラーを当てたい、と作家が思うと、原稿用紙もそう思います。
その場合、想いのきめが粗くなるので、絵そのものにはっきりと表れてきます。
松の間を吹き抜ける風を、感じる人は、次元が違うので、絵の買手にはなり得ません。
無心の状態である人だけが、墨絵に描く絵描きと描かれる半紙の想いを合一(Total)させることが出来、そして同じ想いの鑑賞者に鑑賞されることが出来るのです。
その瞬間(とき)初めて、Drawer、Drawn、Drawingが一体となるわけで、それを悟りの状態だと、一休さんは言っておられるのではないでしょうか。