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一期一会 未(ひつじ)十九の日(その一) 釈迦という いたずらものが 世にいでて おほくのものを まよわするかな 一休禅師は臨済宗の僧侶です。 即ち、ゴータマ・シッダルタ釈迦牟尼仏を開祖として、西天第27祖及び震旦初祖つまりインドにおける仏教最後の祖であり、震旦つまり中国における仏教初の祖であった菩提達磨(ダルマ大師)から六祖大鑑慧能、そして馬祖道一という直系の中で出現した臨済義玄が開祖となる臨済宗であります。 一休さんにとっては、お釈迦さんは、正に雲の上の存在であります。 そのお釈迦さんを、『いたずらもの』とばっさり斬っておられる。 ローマ教皇や大司教がイエスキリストのことを、いたずらものと冗談でも言えるでしょうか。 イスラム教徒がマホメットのことを、いたずらものと言えるでしょうか。 つい最近ある方とお会いして歓談した中で、わたしが書いておる作品は極めてラディカルで、イスラム世界の人間が読んだら殺されると言われ、一方、キリスト教世界やユダヤ教世界の人たちからも、「けしからん!」と言われ、やはり殺されると言うのです。 以前、イラン革命の指導者ホメイニ師が、ロンドン在住のインド人作家が書いた本が、イスラム世界のことを侮辱したとして、高額な懸賞金を、そのインド人の首にかけたという話がありました。 それが事実だとすると、何と器量の小さい、卑小な了見でしょう。 これは宗教の排他性という、一番の害毒を自ら撒き散らしているとしか思えないのですが、わたしはイスラム教のことを良く知っていますので、多分このような高僧が、そんな幼稚なことをするわけがない、お付きの者たちが、ご追従でやらかしたことだと思います。20年も昔に、エジプトの知人とカイロの彼の事務所で面談した際、机の上に置いてあったコーランを指して、「自分は、このコーランを暗唱できる程読んでいる。お前には、アラーの神のような神の存在を信じるか?」と尋ねられたことがあります。 「もちろん、わたしも神を信じる」 わたしが答えました。 「そうか、お前の神は何処にいるか?」 嬉しそうに訊く彼に、わたしは答えました。 「わたしの神は、わたしだ!」 彼は豆鉄砲を食らった鳩のように、目をパチパチさせておりました。 お釈迦さんは、世の中のことは、すべて無で、ゴールも、またその道も何も無いと教えました。 しかし、それでは教えになりません。 教えにならない事を教えているお釈迦さんは、まったくいたずら坊主がふざけておるとしか思えない、と一休さんは、雲の上の存在のお釈迦さんをこき落ろしているのです。 宗教観の違いで、人殺しの戦争をする愚かな人間達が、現代世界でも、山ほどいる。 イラクに対するアメリカの態度も、おかしな話であります。 一休さんの境地までとは申しませんが、みんな一人一人、もう少しおつむの具合を点検された方がいいのではないでしょうか。 一期一会 未(ひつじ)十九の日(その二) みな人の 涅槃常楽 しらずして 生死無常を なげくあはれさ たしか大阪の藤井寺にある、「新しい道」という宗教組織の開祖である松木女史が、生前申された言葉だと、記憶しておりますが、『息も、蝶よ、花よ・・・』 というのがあり、要は、息というもの程有り難いものはないのに、人間はみんなその有り難さを忘れて、蝶や花だと騒いでおる、愚かなことだと言われているのです。 わたしも、まだ同女史の生前、知人の紹介で、一週間の修行をさせてもらったことがあります。 既に長い床に臥せられておられ、お顔を拝借することは出来ませんでしたが、この方に降臨されたのが、わたしが、「鬼神(十部作)」の鬼神四郎に降臨した、丑寅の金神こと国常立命(クニトコタチノミコト)であったようです。 人間は、数分間途絶えるだけで、それこそ命が絶える息を絶え間なく与えられているのに、今日の糧が得られないと騒いでおる。 更に、話にもならないのが、明日の糧がひょっとしたら得られないかも知れないと、まだ来ぬ恐怖に怯えて、せっかくの、今、ここだけしかない大事な時を、無為に過ごしているのが、我々凡夫であります。 どうやら、人間は当り前のように与えられている、とても大事なことを忘れ、どうでもいいような些細なことに心を奪われて生きているようです。 簡単に与えられると、その与えられていることすら、つい忘れてしまうようであります。 だから、息の大事さなど考えたこともないのです。 水は10日、食べ物なら3ヶ月、無くても生きていけるそうです。 息は数分止まると、死んでしまいます。 それなのに、息のことは忘れてしまい、食べ物を追いかけ、嫌なサラリーマン生活を続け、大事な人生を無駄にしている人たちで溢れているのが、現代日本の世相であります。 一休さんも、言われています。 息を与えられていることが、 涅槃常楽であるのに、それを忘れて、生きる苦しみ、死ぬ苦しみ、無常の憐れさを、己独りの心に勝手につくって、自己憐憫しておる、阿呆な人間ども。 そんな愚図愚図言っている暇あれば、さっさと会社など辞めて、息だけでも与えられているのだから、ホームレスにでもなればよい。 そんな風に、現代日本人に、喝を与えられているように思います。 羯諦!羯諦!波羅羯諦!波羅僧羯諦! 往けよ、往けよ、超えて往けよ、全てを超えて往けよ。 喝! はやく、我が道に向かって往きなされ! 会社など超えて往きなされ! 『どうして食べていったらいいのか?』などと下らんことを考えている暇があるなら、そんなもの全て乗り超えて、はやく往きなされ! |