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一期一会 未(ひつじ)二十の日 ほらぬ井に たまらぬ水の 浪だちて かげもかたちも なき人ぞくむ あなたは夢をいつも見ています。 夢の中で、井戸の水を汲んでいる夢をみることもあるでしょう。 しかし、目が醒めると、そこには井戸もない、もちろん汲んだ水もない、ましてや水の浪もない。 だが、夢の中では確かに井戸があって、水の浪を見たはずです。 壮子の夢の話があります。 ある夜、壮子は蝶々になった夢を見ました。 翌朝、彼はパニックに陥ってしまいました。 弟子が「一体どうしたのですか?」と尋ねると壮子が言いました。 「わたしは蝶々になった夢を見た」 弟子たちが笑って言いました。 「そんなことは、わたしたちもしょっちゅう見ます。それは夢だと知っていますから、何もパニックになることなどありません」 壮子は、けらけら笑って弟子たちに言いました。 「お前たちは考えたことはないのかい?人間が蝶々になる夢を見るなら、蝶々が人間になる夢を見たってけっしておかしくはない。今のわたしは、ひょっとしたら壮子になった夢を見ている蝶々かも知れないね」 人間は、50%この話と同じ可能性を抱えて生きています。 今のあなたは、ひょっとして夢の中でのあなたかも知れない。 何故なら、あなたは毎晩、とんでもない人間や動物になった夢を見ているのですから、逆のことも有り得るのです。 そこで一休さんは、言われます。 かげもかたちも なき人ぞくむ どちらが夢か現実かなど問題ではない。どちらも夢なのです。 自分というアイデンティティーがある限り、それは真っ青な空を漂う雲という実体のないものを自分だと思っている錯覚の人生であるのだと。 自分というものを消滅させた後、何か残っているものがあるとするなら、それが本当の自己であるのです。 だが本当の自己は、広大無辺な境界のない真っ青な空ですから、自分と他人の区分けは多分出来ないだろうと、わたしは思うのです。 すべての原因は、その雲のような自分にあることを、いつになったら分かるのでしょうか。 やはり、死なない限り分からないのでしょうか。 |