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一期一会 未(ひつじ)二十一の日 妙なりし 法のはちすの 花の身は 幾世ふるとも 色はかわらじ 仏教では、蓮は人間にとって論理的かつ象徴的な植物として捉えられています。 お釈迦さんの仏像は、必ず蓮の花の上に座っていますが、論理的と言いますか科学的と言った方がいいかも知れません。 人間の体も、原子の結合した分子化合物で構成されているのですから、原子を構成する素粒子のメカニズムを論じた量子論の法則に則していることは云うまでもありません。 従って、人類最大の発見であります、不確実性原理が人間の体にも厳然と適用されているわけです。 不確実性原理というのは、すべてのものは、時には粒子のような振る舞いをすると思えば、ある時には波動の振る舞いをしており、それを確定することは出来ないと言うのです。 粒子というのは、物体ですから、人間の体も物体でできているので、納得できますが、波動即ち波でできているというのは、一般の人たちには、俄かに納得することはできないでしょう。 波となると、光の色はスペクトルといって七種類の色があることは御存知ですね。 赤、橙、黄、緑、青、藍、紫の七つで、虹色というあれです。 従って、人間の体が波で構成されているのなら、それは七色の光の体なのです。 そこで、この七色の光が、体に充満しているから人間には生命があるのであって、その七色の光エネルギーを生命エネルギーというのです。 人間が生きている、即ち寿命があるということは、七色の光である生命エネルギーが体に充満していることを言うのです。 そして七色の光が、全身を循環する際に、水車小屋で水の流れが分けられるように、七色の光の流れを分ける水車小屋が体のあっちこっちに配置されています。 水車の名の通り、羽根車によって回っておるのですが、その羽根車を蓮の花が象徴しているのですから、お釈迦さんは宗教家というより科学者と言った方がいいでしょう。 尾底骨のところにある水車の羽根は4枚ある、頭頂にある羽根は1000枚あるといった具合で、それによって体から放出する光つまりオーラの色が橙色であったり、紫色であったりするのです。 赤、橙といった色は下半身から放出している場合が多く、藍、紫といった色は頭から放出している。 わたしは、小学生の時から絵を描くのが好きで、小学校高学年の時期に、仏像の絵に凝っていたことがあります。 その絵のベースになる色が紫色でして、学校の美術の先生が、どうして紫色を使うのかと訊かれたことがありました。 その先生は、仏教の色は紫色であること、即ち頭(知性)の学問であることを知っていたのでしょう。 わたしの描いた多くの仏像の絵は沢山の賞をもらいました。 蓮の花の色は、桃色がかった紫色がベースになっているのです。 蓮の花とは、その花弁の数と色に大きな意味があったのです。 一休さんは、言われます。 普通の花なら、時の刻む中で色が変化していくのに、蓮の花だけは、いくら時が刻んでも色が変わらない。 法のはちす、人間の道を表す蓮の花弁の数も色も、まったく変わらない不思議な花であり、そんな美しい花なのに、池の底の泥の中から生えてくる。 本当の美しさとは、泥まみれの中にある。と言われているのです。 市井で俗っぽく生きられた一休さんの面目躍如が、この歌にあらわれていると思うのです。 |