一期一会  未(ひつじ)三十五の日(その一)

本来も なきいにしえの 我ならば
死にゆく方も 何もかもなし

輪廻転生の有無について、あなたは、もうはっきりさせなくてはなりません。
一休和尚は、あの世など無いと言う。

「なきいにしえの 我ならば」

生まれる前の、自己はなかった。

「死にゆく方も 何もかもなし」

死んだ後も、自己はない。

それならば、一体輪廻転生するものは、何でしょうか。
自己が無い世界があって、仮にそれがあの世であっても、それを認識する自己が無ければ、その世界は存在し得ないでしょう。
それならば、あの世を肯定しないと成立し得ない宗教の存在意義はどこにあるのでしょうか。
まったく無い。
わたしが、この世的成功を求め、得ることが出来たら、それは人生の失敗者に間違いなくなる、と主張しておりますのは、俗世を捨て、精神世界に入りなさいと言っておるのではありません。
そうすれば、欲望の対象が変わるだけで、その強さはますます強くなっていきます。
その極限が、悟りへの欲望です。
この世的成功を得る人は単純な人です。だからこの世的成功に貪欲になれるのです。要するに、阿呆です。おつむが悪いのです。
政治家、大企業の経営者、大学教授などが、その阿呆な類です。
精神世界に入っていく人は、複雑なおつむの持ち主です。
貪欲なのです。要するに愚かなのです。
役人、医者、弁護士、科学者、宗教者などが、その愚かな類です。
阿呆は死ぬと治りますが、愚か者は死んでも治りません。
それだけ、愚かな人の欲望は深いのです。
この両方を超えるには、生まれる前も、死んだ後も、要するにあの世でも、自己は無いし、その間の生あるこの世でも無自己になれたら、阿呆と愚かを超えて晴れて賢者になれるのです。
無自己になる先ず第一段階は、利他心で生きることです。

一期一会  未(ひつじ)三十五の日(その二)

薪を担いで、本を読む像で有名な二宮金次郎は、晩年二宮尊徳という名前になり、その陰徳・勤勉・倹約の精神が、報徳社運動となって広がり、農政家として、その名を後世に残した立派な方です。
この方が、特に陰徳について忽然と悟ったエピソードを紹介いたします。
昔の風呂は、五右衛門風呂と言いまして、丸い裸のままの桶の下から薪を燃やして湯を沸かすのです。
この方が、招待された家で、湯を頂いた時のことです。
手拭いを持って桶に入った尊徳さん、余りに気持ちがいいもので、体の伸びをしようとしたのですが、丸い狭い桶なのでできない。
そこで手拭いをもったまま、両腕を伸ばした。
そうすると、前へ伸ばした手に持っていた手拭いで押し出された桶の湯が、桶の壁に当たって戻ってきた。
それを見た尊徳さんが、忽然と悟った。
「得ようとすれば、先ず与えなければ、得ること能わず」
それから、一所懸命陰徳の精神を説き始めたそうです。
「Give and Take」です。
「Take and Give」はありません。
利他心とは、Give and Give and Give 即ち Just Giveであります。