一期一会  未(ひつじ)三十七の日

心とて げにもこころは なきものを
さとりはなにの さとりなるらん

般若心経の中に、
『心無罜礙 無罜礙故 無有恐怖 遠離一切転倒夢想』
というのがあります。
『心は本来ひっかかりが無い、ひっかかりが無い故、恐怖も無い。
そして夢物語のようなことに一切囚われずに生きる』
といった意味です。
一休さんが詠まれた、
「心とて」の心と、「げにもこころは」のこころとは違うものであります。
この「げ」を、わたしは、「礙」と取っています。
「げにもこころは なきものを」
は、『心無罜礙 無罜礙故』のことではないでしょうか。
即ち、ひっかかりの無い本来の心の状態におれば、悟りなど必要ないものであると言っておられるのです。
それでは、ひっかかるのは、一体何でありましょうか。
欲であることは、みなさんも容易に想像できる筈です。
なぜ欲がひっかかるのでしょうか。
ひっかかる為には、ひっかかるものがなくてはひっかかりません。
むかし、女性を軟派することを、ひっかけると言いました。
下品な言葉でありますが、「女をひっかける」と言っていました。
即ち、一本釣りの感覚のようです。
釣りをする訳です。
釣りをする為には、餌が要ります。
「女をひっかける」ための、餌はなんでしょうか。
むかしは、美男子とか、背が高いとか、頭がいいとか、おしゃべりが上手いとか、お世辞が上手い等々でした。
つまり、感情、気分、ムードで恋愛していたようで、お遊びであってもそれなりに雰囲気がありました。
それは、自分の欲望の為に釣りをしていても、欲で欲を釣るようなことはしなかったのです。
ところが現代では、餌としてはお金が断トツであるようです。
まさに、餌で餌を釣ると言いますか、欲で欲を釣るわけですから、こうなるとムードも雰囲気もあったものではありません。
つまり、ひっかかるのは欲であっても、それをひっかける餌まで欲であってはいけないのです。
人間にも他の生き物にも本能的な欲はあります。
問題なのは、欲を欲で釣る行為であります。
そういう行為を何とも思わないでできるこころを「心」と言うのです。
確かに欲ではあるが、それを欲とは思わせない気持ちを「こころ」と言うのです。
悟りを開く以前に、「心」を「こころ」にしなければ意味がありません。