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一期一会 未(ひつじ)四十四の日 国家の盛衰を決定づけるのは、国民のレベルに因ることは言うまでもないことですが、国民のレベルを決定づけるのは、教育ではなく、国民ひとりひとりの水瓶の大きさに因ることを重々認識して頂きたいのです。 国力というのは、一般には軍事力と経済力を以って量られるのですが、忘れてならないのが人口の大きさであることは誰もが認めるところであります。 それは、一重に国民の水瓶の総量において人口の大小が決定的であることを示唆しているのです。 中国が、昭和30年代から40年代の日本の状況と同じように、凄まじい勢いで経済力を伸ばしています。 しかし、日本の当時の人口と中国の現在の人口とを比較すると10対1であります。 つまり、日本が10年掛かって達成することを、中国は1年で成し遂げてしまうわけです。 従って、昭和40年代から約40近く経った今、嘗ての日本が達成した経済成長を中国はここ4、5年で達成するポテンシャリティーを持っているのです。 覇権主義の欧米諸国が、常に中国を意識してきたのは当然であったわけです。 インドという国も、中国と肩を並べるだけの国土と人口を持って来たのですが、英国に蹂躙されて来たこともあり、インドという国の体質が中国とは大きく違っていたことを欧米諸国は熟知していたのでしょう。 インドという国は、木でたとえれば種子に当たると言われています。 バラモン教をはじめとしてジャイナ教、ヒンズー教、そして仏教の発祥の地であり、欧米諸国の学問の源流であり、近代科学の基礎になっているギリシャ哲学を西洋思想の原点とするなら、インド哲学は東洋思想の原点であります。 中国はインドに匹敵するだけの歴史を持っているのですが、中国から大乗的宗教は興っていないのです。 老壮思想や孔孟思想は生まれても、大乗的なものに至っていないのは、新しい芽を創る種子的要因をインドのように持っていない国であることを示しているのです。 しかし、インドという国は種子になり得ても、芽を噴かせる力を持っていない国であったのです。 インドで興った仏教が大乗的になり得たのは、達磨大師が、インドの特性をよく理解して、中国に持ち込んだのがその理由であったのです。 インドという国が共産主義国家にならず、英国覇権の下とはいえ、近代工業社会にとって、国土の広さと人口の大きさという最大の利点を生かすことが出来なかったのは、この種子の特性に因るものであったのです。 一方、中国は、種子から芽を噴かせる要因を持った国であったのです。 中世宗教支配型社会から近代工業社会を構築できる特性を持った国であったのですが、やはり英国に蹂躙された歴史と、その反動で生まれた共産主義思想の嵐が、そのブレーキ役になったのは明白であります。 その箍がやっと外れた今、怒涛の勢いで今までの遅れを取り戻そうとやっきになるのは当然のことであります。 しかし、中国という国の特性は、インドの種子を生むオリジナリティーに対し、芽を噴かせるための中庸性にあったことを見逃してはなりません。 英国で興った近代工業社会の花を咲かせたのは米国であり、その開花性であったのです。 中国という国は、芽を噴かせる為の種子に水を与えることにも目を向け、噴いた芽に栄養を与えて幹に成長させる目も持っている中庸の精神、平たく言えばバランス感覚は持っているのですが、最後に開花させるものを持っていないのです。 開花させる為には、外に目を向けなければなりません。 この特性を持っているのが米国であり、日本であることを決して忘れてはなりません。 禅仏教を開花させたのが、日本であり、一休さんのような傑僧をたくさん輩出した国であることに誇りを、今こそ持たなければなりません。 この開花性に、日本の活きる道があることを知ることが、日本という国の水瓶の実体を知ることであり、国民ひとりひとりの水瓶を大きくする要因であるのです。 それともうひとつ忘れてはならない大事なことがあります。 同じ開花性を持った米国とは、一見同質に見えますが、同質故相容れない関係であることです。 やはり原爆を落とした国と、落とされた国なのです。 ラディカルな言い方をすれば、落とされたくなかったら落とすしかない関係なのです。 |