一期一会  未(ひつじ)七の日

今、わたしは一休禅師の本を読んでおりますが、その中で一休さんが詠んだ詩(うた)があります。

有漏ぢより 無漏ぢへかへる 一休み(ひとやすみ)
雨ふらばふれ 風ふかばふけ

という詩(うた)であります。
『有漏ぢ』は、うろぢ、と読みまして、俗にまみれ、エネルギーを浪費している現世のことを意味します。
『無漏ぢ』は、むろぢ、と読みまして、エネルギー浪費に気づいた現世を有意義な生き方にする、いわゆる悟りの境地のことを意味します。
人間の一生は、有漏ぢの生き方から無漏ぢの生き方へ解脱するための、ほんの短い少休止だと言っているのです。
一休さんは、変わったお坊さんで、寺に祀ってある仏像を、寒い冬には薪代わりに燃やしたり、暑い夏には、縁側の柱に仏像を括って、『さあ、あなたも涼みなさい!』と声を掛けるような方でした。
固定観念に一切捉われない生き方を実践され、お坊さん仲間でも変わり者で通っていたようです。
帝の御落胤という出自でありながら、生まれながらに仏門の道に入られ、当時権勢を誇っていた三代将軍足利義満も一目置いた程の傑僧でありました。
この一休さんが、この詩を詠んだ時に、この世には、光明を得た人と、光明を得ていない人の二分類あって、光明を得ていない凡夫は、一生掛かっても、光明を得た人を認識出来ないものだと言われたのです。
一休さんは、イエスキリストの存在を知っておられたかどうか知りませんが、イエスキリストと当時の一般大衆との関係が、まさに、光明を得た人と、光明を得ていない人との関係であり、有漏ぢと無漏ぢの関係でもあります。
イエスキリストを磔にしたのは、誰でもない、一般凡夫であり、現代においてもイエスキリストのような人物が世に輩出すれば、一般大衆は再びイエスを磔にするであろうし、そして磔にした後、崇拝するのが、光明を得ていない人間の性癖だと看破されているのです。
お釈迦さんが漏尽通力と言われたのが無漏ぢとするなら、まさに現世の凡夫は有漏ぢだと言えるのでしょう。
そんな現世を、一休み(ひとやすみ)する境地で生きるのは、簡単なようで極めて難儀なことであります。
特に、現代世界を鑑みて見ますと、有漏ぢも極まれりの感が致します。
みなさん、ここいらでちょっと一休みするのも良いのではないでしょうか。